荒俣宏。ラブクラフトをはじめとする数多くの幻想文学の翻訳をはじめ、作家としてもベストセラー「帝都物語」を輩出、はたまた評論家・博物学者としても縦横無尽に活躍する、人呼んで「平成の怪人」。52才を迎えた今も次々とエネルギッシュに活動のフィールドを広げつつある彼が、元日魯漁業(現ニチロ)に勤めるコンピュータ・プログラマーだったことは知る人ぞ知る話だ。無精ひげだらけの顔に常に笑みを絶やさず、穏やかに語る荒俣氏。その言葉の端々からは、厳しい生存競争を勝ち抜いてきたプロフェッショナルの誇りが垣間見える。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 コンピュータ・プログラマーになった動機なんてありませんね。ただ会社から命令されて無理矢理始めさせられただけですよ。
 大学を卒業して、日魯漁業という会社に入社したのですが、その会社を選んだのも魚が好きだったから。ところが入ってみたらいきなり新設されたばかりのコンピュータ室に配属された。コンピュータなんて触ったこともなかったのに(笑)。同期の新人6人が同じコンピュータ室に配属されたんですが、はじめは皆、誰が先に辞めるか競争していたようなものでした。営業や経理、資材といった部門に配属されるものとばかり思っていたのに、いきなり機械のお守りでしょう。こんなつまんない所に来て、とみんな文句を言ってました。おまけに本社にはコンピュータがなかったので、メインバンクだった拓銀(旧・北海道拓殖銀行)に派遣されて、そこの機械を使うことに。せっかく入社研修の時に仲良くなった女の子がいても会うことすらできない。島流しのようなものです。
 ところが意外にも、この仕事が性にあっていたんですね。しばらくやってみると、コンピュータというのは理系や工学部の人たちだけがやるものじゃない、業務を進めるためには非常に便利だし、個人の人格形成にも役に立つものだ、ということがわかり始めたんです。何事も性急に結論を出してはいけない、ということかな。
 仕事自体はハードそのものです。当時のコンピュータは24時間メンテナンス体制で、その上、銀行のコンピュータを間借りしていたので、昼間はプログラムの開発ができない。実際の作業を行うのは夜12時を回ってから。ほとんど会社に住んでいるようなもので、残業時間は200時間を軽くオーバーしていました。
 それに加えて、学生時代に始めた翻訳の仕事も続けていましたから。夜2時か3時に帰って、明け方5時くらいまで翻訳の仕事をして、7時30分に起きて出社する毎日でした。
 キツくないかって?そりゃキツイですよ。でもね、我々はカウンターカルチャーの人間だから。昼は昼の顔、夜は夜の顔、というライフスタイルがカッコイイし、自分らしいと思っていました。当時のサラリーマンといえば、人生全てが会社を中心に回っているという考え方が当たり前。僕のような人間は当然異端視されて、上司には嫌われました。でも、逆に言えば会社に愛されている人間というのも、個人の人生という意味では問題があります。

結局、何だかんだ言いながら、9年半もコンピュータ・プログラマーの仕事を続けてしまいましたね。
 翻訳の仕事が忙しくなってからも、自分から会社を辞めようと深刻に考えたことはなかったんです。当時は55才が定年でしたから、大学卒だと定年まで33年。そのくらいだったら試行錯誤しているうちに終わるだろう、と思っていました。
 ところがそうこうしているうちに、オイルショックの余波で会社の業績が急速に悪化したんですね。真っ先に肩たたきにあったのは、当時僕だけでなく変わり者の集団だと思われていたコンピュータ室の人間でした。僕自身も何度も退職を迫られましたが、肩をたたかれて辞めるのは悔しいと、逆に意地になっていた。  そんなある日、入社10年目を迎えたのを期に、突然外国部へ異動するよう申し渡されたんです。言ってみれば初めての「普通の会社勤め」になったわけなんですが、そこでの仕事が想像を絶するほど退屈なもので…。
 とにかく仕事が手作業の山なんです。コンピュータを使えば1、2分で済む計算を、夜の2時、3時まで残って一生懸命やっている。税関に提出する書類もフォーマットも何もないから全部一から手書き。手間がかかるだけでまったく知的なことができない。馬鹿馬鹿しい、というより不毛に思えて、急に残りの20数年が重たくなってしまったわけです。
ついに辞表を出しました。32才の時のことでしたね。
 終身雇用が当たり前の20年前は、転職なんていう言葉は事実上なかったんです。会社を辞めるイコール失業を意味しました。
 僕にはプログラミングの知識に加え、翻訳という技能もあるということで、会社を辞めるに当たっても、何の心配もしませんでした。2〜3年翻訳でもやって、食いっぱぐれたら新聞でプログラマー募集の広告でも探して就職すればいいや、と思っていたんです。けれども、親の世代は違いましたね。顔を合わせるたびにまだ就職しないのか、と。結局、平凡社という出版社で百科事典の編集助手をやらないか、という話があって、そのままズルズルとここまで来ちゃいましたけど、親には未だに、いつ就職するのかと聞かれます(苦笑)。

ほとんどの人が考えているのは転職といってもただ環境を変えるだけでしょう。引越しのようなもので、いわば転地に近い。それは誰にでもできることだし、若くてエネルギーのあるうちにどんどんやるべきです。しがらみに縛られるなんていうのはあまり面白いことじゃないから。だけれども、哲学的な意味を含んだ、つまり非常に煮詰まった自分を、新しいフィールドに出すという意味での転職を考えている人は、かなりのリスクを背負うことを覚悟しなくてはならない。例えば、俺はサラリーマンには向かないから料理人になろう、なんていうのは真の転職ですね。

 僕自身、丸裸で飛び出したわけじゃない。サラリーマンをやっているうちから翻訳の仕事に手を染め、いわば「武器を持った」状態だったからこそ、ためらいなく転職に踏み切れたと言えると思います。そういう意味で僕には、これで失敗してもしかたないや、と思うものがあった。けれども、もしなんの取っ掛かりもない世界に行こうと思う人がいるなら、何年かかけて「武器を持とう」としないといけません。転職とは、自分の人間力を試す修行とでも考えた方がいいでしょうね。

本当の意味での転職とは難しいもの、というのが、僕の基本的な考え方です。
 終身雇用が崩れ、人材の流動性が高まっているという現在の状況は、当然のもの。むしろ今までが封建社会のようなもので、異常だったんですよ。お母さんの元から離れた幼児のように、自分の足で立って歩かなければならない段階はいつかはやってくるものです。現在は、自分自身が試される状態に周りが必然的にしてくれているという、ある意味で非常にありがたい時代ではないのでしょうか。今までは戦わずしておめおめと死んでしまった人が多い。でも、それじゃ人間の一生としてあまり面白くない。ゲームだって危機を乗り越えるからこそ面白いでしょう。確かにこれまではみんなそこそこ、30点くらいでは上がれるゲームだったかも知れないけど、今はそんなことはあり得ないし、また30点で上がっても意味がない時代になってしまった。0点か100点か、このスリリングを楽しめるかどうか。まあ、先の事はあまり考えないでトライするのが一番ですよ。

 結局、会社で仕事が合わないと思ったら、合う仕事に変えればいいだけの話ですよね。しかしその場合、何がやりたいかクリアでなくてはならない。基本的にはこれがやりたい、か、これができる、のどちらかがあれば転職はできますが、どちらもなければただ失業するだけです。
 また、転職はどの程度の必然性を持っているかで変わってくるもの。そんなに大きな必然性がないなら、サラリーが良くなるとか、通勤が楽になるといった実利的な目標で転職先を選べばいい。終身雇用が終わった今、それは貪欲に狙っていいんじゃないか、というよりそれしか自分の生活を守る道はないと思います。

 けれども繰り返しますが、本当に哲学的な意味で、転職によって自分の意識を変えよう、などと思っている人は、それこそ出家するような覚悟で、ただひたすら修行に励むしかない。その場合のキーワードも、ただ一言、「やりたい」という言葉に尽きると思いますね。