講演
ナポレオン皇帝版「エジプト誌」とアーカイブ 2



講演は、図書館長の挨拶のあと3時10分頃から4時40分頃までの約1時間半開催されました。
参加者は200名前後。学生や大学教職員に加え、一般の参加者も結構いたようです。
デジタル化された『エジプト誌』の画像とアラマタ自身が用意したスライドを見ながら、講演は進められました。
以下、断片的ですが講演の内容です。

◎ 『エジプト誌』との出会いは慶応大学1年の時
当時アラマタは、大学図書館の蔵書目録を片っ端からチェックし、卒業するまでにめぼしいものは全部見てやろうと頑張っていました。そんな中で『エジプト誌』の一部を復刻した本を見つけ、初めてその図版を見たそうです。その後、30歳代になってフランスを訪れたとき図書館で実物を見てその大きさに圧倒されたそうです。

◎書誌学者泣かせの『エジプト誌』
オーダーが一冊ごとに別々で、カラー頁数が異なっていたり、二つと同じもがないらしい。

◎『エジプト誌』以前のピラミッドの図版は槍のように尖っていた
17世紀くらいまで、ピラミッドはかなり急角度に描かれていた。考えられる理由として、当時の技術では角度の測定が困難であったこと、ピラミッド内部の王家の宝物や財産あるいは薬として輸出することのできたミイラに関心があり、外観にはあまり関心がなかったことなどが揚げられた。

◎ 『エジプト誌』では復元図版が多く作成された。
例えば神殿等の古代遺物を描く際、建築時の色を再現して彩色したり、破損個所を復元して描いたりされた。これは、当時の古物愛好家(考古学者というよりアマテュール≪愛好家≫だった)の楽しみ方の特徴で、古代遺物に対する考え方・認識の仕方が現代と異なることによる。しかし一方で、壁画を描いた図版などでは壁面の壊れた部分などそのまま描いたものもあり、当時二通りの学問態度があったことを示しているという。

◎『エジプト誌』博物学篇
例えば、ワシを描いた図版が鳥類博物画の最高傑作であること、鉱物の質感を見事に再現していることなど、博物図版の素晴らしさが紹介された。また、ポリプテルスという肺魚の仲間がはじめて示されたのも博物学上の大きな成果として揚げられた。

◎『エジプト誌』と『魔笛』の舞台背景
『エジプト誌』出版後、そこに描かれた神殿や神像の図は西洋美術家たちに大きな関心を抱かせ、そのスタイルが「エジプト様式」としてさまざまな建築等に使用された。なかでも建築家で舞台装置デザイナーのシンケルは大きな影響を受け、モーツァルトのオペラ『魔笛』の舞台装置に『エジプト誌』の図版を使用した。

◎『エジプト誌』の中の仕掛け
エジプト遠征に参加した絵師・ドノンは、『エジプト誌』の図版中にドラマティックな仕掛けを残している。例えば、エスナの神殿の図版では、古代の儀式が執り行われている様子を再現して描いている。また光と陰を巧みに使った演出はアーティストとしての感覚で描かれ、『エジプト誌』が単なる考古学的・学術的資料にとどまらないことを示している。ちなみにドノンは当時画家として教養婦人のアイドル的存在で、遠征への参加もジョゼフィーヌの進言によるらしい。恋愛の絵からポルノグラフィーまで手掛け、冒険好き。『エジプト誌』のための元絵をちゃっかり流用して先に出版、ベストセラーとなった。

◎ナポレオンが『エジプト誌』を刊行した背景
ナポレオンはアレクサンドロス大王にならい、単に領土的な問題だけではなく、東西の文明の統合、世界融合文化を作りたいという観点からもエジプト遠征を行なった。彼はその遠征を通じ、古代エジプトの神の叡智に触れ、それをユニバーサルなもの、普遍的なもののベースとして受け入れようとした。大赤字を覚悟で国家的プロジェクトとして『エジプト誌』を刊行した背景がここにあるのではないか。

◎ナポレオンの名言
「ギザのピラミッドの内部に入ったとき、神託を受けた。しかしその中身は絶対に他言しない。」(晩年の言葉)
「四千年の風景が諸君の前にある。」(エジプト遠征時、自らの部隊を前に)
「真の征服とは、知識が無知を征服したことだ。」

講演は「今回のデジタル化により『エジプト誌』をじっくり見られるようになったことで、ナポレオンがエジプトで本当に見ようとしたことが判ってくるのではないでしょうか。」という言葉で締めくくられ、終了しました。
講演終了後サインをもらっている人が2、3人いましたが、大学所蔵の貴重書を閲覧して新大阪6時半の新幹線で帰るとのことで、相当あわただしかったようでアラマタ本人よりまわりの関係者があせってたそうです(笑)。