「海洋堂フィギュアの密かな謎」 荒俣 宏

 十年以上は前になるだろう。オランダのライデン博物館にあるしシーボルト・コレクションを見物に行ったことがある。倉庫の抽斗を片っぱしから空けていると、長崎のカピタンが集めたという江戸のガラクタ物のコーナーがあった。シーボルト崇拝者にとっては、ちょっと公開したくないタイプの見世物興行アイテムで、明らかにセックスを演じさせることを目的とした男女2体の生き人形とか、カッパや人形の実物標本(?)があった。この中に、小さな動物フィギュアがあった。木と布でこしらえたリアルな動物が、仕切りのついた箱に並べてあった。ちょうど貝類標本箱のようだったが、鳥も獣も、実によくできている。布製のものは手ざわりも抜群によかった。大きさは、だいたい大人の親指ぐらいだ。
 ぼくはこれを見て、すっかり気にいった。いわゆる江戸オモチャなのだが、ちっちゃくて、たくさん揃っている。ドイツで見た十九世紀のブリキの兵隊も、こんな感じのちっちゃな集め物だったけれど、精密度が違うし、手にとって撫でまわしたいという素材の愛らしさもなかった。その点、江戸オモチャは実際の動物を小さく、かわいらしくさせたようなペット性がある。
 その時の思いを、六年ほど経て後、東京でもう一度味わえた。「チョコエッグ」の動物フィギュアだった。
フィギュアは実は展示物ではない。公園や駅前にある彫刻のようなパブリックな展示物と違う。所有する人のプライベートな生活に溶け入り、スキンシップがとれ、しかも少しだけ手を合わせて拝みたくなるような呪術性を持って要ること。そういうフィギュアを日本人は古くから家庭の中に集めていた。雛人形はその代表だった。
 海洋堂の食玩を手にした瞬間、ぼくはシーボルト・コレクションの現場に、江戸のオモチャ屋に、そして小さな木製の神像が並ぶ祠でお祈りする神代の日本に、タイムスリップした。単に、よく出来ているだけではなかったからだ。これらは「小さき神」だった。日本の神様は小さくて、ほとんど何もしてくれない。だからたくさん集めてお祈りする。でも何もしてくれないから、遊ぶしかなくなる。古い言葉でいうなら集める側が「入魂」し、「供養」してやらなければいけない。
そういうクオリティーは海洋堂作品だけにしか存在しなかった。たぶん原型師の手と、彩色する中国人職人の手の感触とが生なましくフィギュアの表面に残っているからだろう。たかがオマケのフィギュアに、ここまで「手のぬくもり」がまとわりついていると、いわば付喪神のような妖怪性が生まれる。付喪神と言うのは妖怪が化けた器物のこと。ブンブク茶釜のごきものだ。この妖怪フィギュアをかわいがって、入魂してやりたい。実際、海洋堂の作品の一部は素材の関係で夏になるとグニャリとしてポーズを変える。まことに神がかった商品なのだ。

(「テレビブロス」平成14年6月8日号p.10、海洋堂フィギュア特集より)