Vol.1 海外旅行の達人??

掲載日:2006年10月17日 テーマ:海外旅行、船旅

 ここ30年ほど、海外旅行へは、おおむね取材を兼ねてでかける。放浪の旅ではないが、普通の旅行では行かない場所へでかける機会が多いので、考えられないような経験をたくさん重ねてきた。ただし、ほとんどは体験失敗談なのだが……。  反面教師の弁ということで、これから書かせていただくが、今でもゾッとする失敗談のひとつは、ペナン島での思いがけぬ体験であった。いまから20年ほど前のこと、日本の豪華客船「S」号がおひろめ航海をおこなうというので、取材のために乗船した。タキシード持参、ドレスコードを守るはじめての本格的な船旅だったので、こちらも緊張した。連日楽しいプログラムが盛りだくさんで、休む暇がないのが欠点だったが、時差も感じず、いちいち荷物のパッキングをする必要もなく、土産は箪笥みたいな大きいものでも持って帰れる、といういいこと尽くめの旅スタイルだったため、以来、船旅が「やみつき」になった。  船旅は、各地の港で半日から一日下船するときが、また楽しいのだ。緊張が解け、いつもの探検スタイルに戻って、あちこち見物してまわれる。ペナン島で下船の前に出向は午後6時と聞かされたが、島内めぐりをしているうちに時間の感覚がなくなった。夕方、日が落ちかけたら、おおむね6時だろう、くらいに気楽な認識になっていった。島内にはヒンドゥー教や儒教の聖堂がたくさんあって、ぼくの関心領域だったから、なおいけなかった。極楽寺とへび寺が気に入って、長逗留してしまった。  ヘビ寺は1850年建立と、比較的新しい建物だったが、最も有名な儒教寺院で、おもしろい。人々の病気やけがを治癒させる神通力をもったチョー・スー・コンなる道士を祀っている。薄暗い本堂の端に木があって、そこにヘビがおとなしく巻きついている。緑色をした小さいのがたくさんいて、変にかわいい。ヘビ好きのぼくは、思わず手をだして頭をさすった。いやがらないので、何匹もさすった。出た後に、タクシーの運転手にその話をしたら、あれはワグラーズ・ピット・バイパーという毒蛇だよ、と聞かされ、蒼白になった。どうやら、安全のため毒牙を抜いてあったらしいが、総毛だった。むやみにヘビに触れてはいけない。  でも、本当に総毛だった体験は、それではない。へび寺を最後に、空も翳ってきたので、港に帰ることにした。あいにく、ぼくは腕時計をしてこなかった。運転手も時計はないらしく、もう6時ごろか、とたずねたらそろそろだろうという返事。ちょっと嫌な予感がしたが、多少の遅刻は許されると決め込んで、ペナンの港に戻った。ところが、肝心の豪華客船がどこを探してもいないのだ。港の時計を見たら、なんと7時10分前! さすがに真っ青になった。パスポートは船内にある。あわてて沖合いをみると、洋上はるかに大型船の姿が情けなくもちっぽけに見えた。「S」号である! 血相変えて事務所に飛び込んだ。そしたら、帰ってこない客がいるので、パスポートを置いて出航したという。パスポートは、信じがたい話だが、岸壁の石の台の上に置いてあった。  ぼくは、そばにいた漁船に有り金ぜんぶ渡して客船を追いかけてもらうことにした。その漁船は以外に高速だったおかげで、10分ほどで客船に追いついてくれた! 縄梯子を伝ってやっとのことで客船に戻りついたが、甲板が黒山の人だかりだった。作家仲間の林真理子さんや志茂田景樹さんにも冷やかされた。船長から大目玉を頂戴したのはもちろんである。大事な処女航海に迷惑をかけたことを、今も申し訳ないと思っている。そこで今回の教訓??海外旅行は時間の管理が最重要。時計はかならずもって歩け。

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Vol.2 連戦連敗でも、めげるな

掲載日:2006年11月17日 テーマ:海外旅行、パリ

海外旅行は、そう何度も行けるわけではないので、事前のスケジュール作成が重要になる。情報を集めて、日程の限界まで予定をぎっしり詰め込みたくなるのが人情だ。ぼくも旅先では遅寝早起きの過密スケジュールを組み、食事もとらずに見たいところを走り回る。  この勤勉さが東京でも発揮できたら、人生はどんなに実り多いものになるだろう、と考えてしまうほどなのだが、海外旅行で詰め込みスケジュールを完璧に消化するのは、至難の業といってよい。かならずどこかで破綻する。  じつは、つい先日も、パリで「悪い見本」を実践して帰ってきたのである。  さぁ、楽しいバカンス旅行だ、というので詰め込みスケジュールを作った。まず、クリニャンクールの骨董市へ行きたい。この市は週末開催だから、土曜日にパリへ着くのがベストだ。土曜か日曜、どちらかで行けるだろうし、この曜日ならたいていの博物館や催し物もオープンしているだろう。できたばかりのトロカデロ水族館「シネ・アクア」を見物したい。ただし、率のよい両替は平日でないとできないから、土日はお金のかからない町歩きがいいだろう。で、月曜になったら、朝一番に両替屋に行く。返す刀で、すぐ近くのオペラ・ガルニエへ出向き、豪華なオペラ座の装飾に酔いしれる。そこからマドレーヌへ歩いて、有名レストランでランチ食べて高級ブティック街のショッピング。あとは夕方まで『ダ・ヴィンチ・コード』に出てくる建物めぐり。夜はチュイルリ庭園の縁日露店で遊ぶ。観覧車に乗って、パリの夜景を楽しもう・・・という具合に。  ところが、ここまで日程を順調にこなしたあとの火曜日に、事件は起きた。この日は自然史博物館、技術博物館、オランジュリー美術館と回って、ちょっとサマリテーヌ百貨店のバーゲンに立ち寄り。最後にルーブル博物館に辿りつく予定とした。もちろん、昼ごはんを食べる時間など勘定していない。朝、地下鉄を乗り継いで、「ドラゴン展」を開催中の自然史博物館へ出かけた。ところが、クローズしている。日程が詰まっているので、原因をさぐることもなく、次の博物館へ移動した。しかし、そこも閉館していた。   「ついてないなー」とかいいながら、即座に次のサマリテーヌへ移動。しかしおどろいたことに、百貨店は長期改修のため閉店中だ。あわてて、すぐ近くにある大好きな古雑誌専門店「ガルカント」へ出かけたが、なんと、昨日から夏のバカンスに突入! そんなばかな、とばかりにサンジェルマンの古本屋へダッシュするも、これまたクローズ中。どうしてパリはこうも休みの店が多いのだ、と怒鳴り散らしながら、ルーブルへ。ところが、ここも閉館。聞いたら、火曜は博物館関係の一斉休館日だという。  これはひどい。ここまでで、すでに7連敗だ。日程がぎっしりなので、この日見られないところは、代替日が設定できない。すでに時刻も午後4時を回ったころ、ルーブルの前で呆然としていると、目の前を市内見物用の赤いオープンバスが、ふと通り過ぎた。いままで気づかなかったが、これはおもしろそうだ。せめて、これに乗って一勝はあげないと、と思い直し、乗り場をさがしまわること、また30分。ようやく5時ちかくのツアーに乗り込み、炎天に曝されながら、ノートルダム大聖堂やエッフェル塔などの「おのぼりさん」コースを堪能した。意外に、といえば失礼だが、新鮮でおもしろかったし、いい写真も撮れた。まさに「拾い物」であった。  このように、詰め込み日程は、崩れると全滅になるリスクが高い。よく情報をチェックする必要がある。でも、たとえ連戦連敗でも、「拾い物」を発見する余力だけは残しておかないといけない。一勝さえできれば、失敗も「愉快な伝説」に変えることができるから。

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Vol.3 海外で『走れメロス』をしてはいけない!

掲載日:2006年12月18日 テーマ:ウイーン , ヨーロッパ , 体験  

君子危うきに近寄らず。この名言は海外旅行にこそ重要だ、と心から実感するできごとを体験したのは、わたしだけだろうか。  海外旅行には誘惑が多い。つい、ハメをはずして浮かれてしまったり、あるいは、腹が立って気分が収まらなくなることもある。とくに、日本人と会話したことがないヨーロッパ人と仕事をしたときなぞは、最悪だ。こういうとき、なにかパーッと憂さ晴らしがしたくなるのだが、くれぐれも用心することだ。でないと、わたしのように、『走れメロス』の話を地で行くような目に遭うことになる。  15年前に、ある雑誌の取材で若い編集者とウイーンに出かけたことがある。美術館での撮影だったが、指定されたのは休館日の朝だった。真冬で、寒かった上に、休館日の美術館は人気がない。悪いことは重なるもので、相手が約束の時間を守ってくれず、美術館にあらわれたのは1時間遅れだった。いろいろ文句をいったら、知ったことか、と冷たい返事。それでも我慢して撮影を終えた。あまりに疲れたので、日本料理でも食べて元気になろうとしたのだが、その料理店の対応にもカチンときた。お茶を土瓶で持ってきてくれと頼んだのに、湯飲みに一杯しか持ってきてくれない。たくさん飲むから大きい入れ物にいれてきてほしいと再度要求すると、金属製の薬缶に日本茶を入れて持ってこられた。さすがにむっとして、こんなつまらないことで喧嘩になった。むしゃくしゃしたので、編集者とショーでも見られるバーみたいなにぎやかな店に行こうという話になった。わたしはお酒を飲まないのだが、一緒に付き合ってくれている編集者にサーヴィスのつもりで、その店にはいったのだった。  店はなんだか安っぽかった。ハンガリーから出稼ぎにきているとかいうホステスが3人ほど席にきて、下手な英語で故郷の話をする。ヨーロッパの人もいろいろ大変なんだなぁと同情して、親身に聞いていると、シャンペンを頼んでいいか、と女性がいうので、気軽にオーケーした。彼女たちは喜んでいるので、いいことをしたかなと思っていたら、帰りがけに請求書がきた。シャンペン代が10万円! ふたりとも蒼白になり、固まった。そんな大金は持っていない。旅の者だから、こんなに高いとは知らなかったのだ、と支払えない事情を説明した。そうしたら、今度はものすごくでかい男たちに囲まれた。  金を払わないと半殺しにされそうな店の気配に気圧され、編集者がなけなしの取材費を取りにホテルへ戻ることになった。それまで、わたしは人質となって酒場の事務所に監禁される。もし、お前の友達が金を持って戻らなかったら、どうなるか分かっているだろうな、と脅された。わたしは椅子に座らされ、見張りが付いた。トイレにも行かせてくれない。だれも口をきいてくれないし、ホステスには嘲笑される。怖い、苦しい、情けない、の屈辱をあじわうこと2時間、何度も「一人で逃げたんじゃなかろうか?」と友を疑った。よく考えると、この状況は、太宰治の名作短編『走れメロス』そのままだと気づいた。編集者がメロスだ。小説では、メロスは母親に会いに行くのだが、こっちのメロスは飲み代の工面に行くのだ。あまりにも切なかった。ようやく編集者が現金を持って戻ってきてくれたときには、不覚にも涙が出た。  しかし、怖い体験であった。もし飲み代が支払えなかったら、どこかの悪場所へ売り飛ばされていたかもしれない。わたしたちは帰国後、あらためて身が縮んだ。以来、ウイーンには近づかないでいる。  みなさん、ふだん飲み慣れない者は海外で気が大きくなってはいけない。もちろん、決して人質になるようなことは避けなければならない。

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Vol.4メキシコのタクシーに振り回される

掲載日:2007年1月22日 テーマ:メキシコ , タクシー

 中米のメキシコは、ぼくが興味を持っているピラミッドのある国だ。とりわけチチェンイツァにある階段ピラミッドは、スペイン人がはいるまで知られていなかったはずの馬の彫刻だの、勝利者がいけにえになったことで有名な「サッカー球技場」だの、とにかくミステリーがいっぱいの古代文明遺跡である。ちょうど、ベリーズに仕事に出かけたついでに、車を乗り継いで出かけよう、と思い立った。  まずベリーズのタクシーでメキシコ国境まで行き、そこでメキシコのタクシーに乗り換え、ユカタン半島のほうにあるチチェンイツァへ到着する。朝早く出発すれば、おそくとも夕方には到着、という見通しを立て、ごく気軽に出かけた。ベリーズは、もとイギリスがはいっていたせいか、物事にきっちりしており、タクシーは順調に国境まで走った。国境を越えたところで、メキシコのタクシーを拾った。愛想のいいドライバーに、ピラミッドまで行ってくれ、と依頼したら、ニコニコしながら、「お安い御用」と返事する。ところが、乗車すると、隣町でガスを入れるだの、知り合いに会ってから、だのと私用ばかり優先するので、乗り換えるぞ、と怒ったら、「あそこは遠いから昼飯を自宅で食べて出発したい」とのこと。家まで10分だというので、運転手の自宅へ付き合わされた。  彼氏は客を車に残し、奥さんと大笑いしながらランチを食べだした。30分の約束が1時間近いロスになった。これもメキシコ流か、と諦めて、午後1時にやっと目的地へのドライブが始まった。砂漠のなかを一直線……の予定だったが、1時間ほど走ったとき、突然車が止まった。なんだか、これ以上は行けなくなったらしい。運賃をタダにするから降りろ、という。「ここは国道だから、流しのタクシーがいくらでもある」とかいうので、われわれは下車し、砂漠のまんなかでタクシーが通りかかるのを待つことにした。  はじめのうちは、こういう経験も話のタネになるね、と笑っていたが、さっきから車なんか一台も通りかからないことに、突如気づいた。真っ青になった。しかし、天の助けか、砂漠のかなたからタクシーが一台やってきた。われわれは身を投げだし、絶対に逃さぬようブロックして、車を止めた。強盗かと思われたようだが、「どーしても乗せろ」と要求した。話が通じて、目的地へ連れて行ってくれることになった。運転手に経緯を話すと、彼は答えた。「あんたら、バカじゃないのか。こんな砂漠でタクシー拾おうたって、そりゃ無理だ。一日待っても車は来ないよ。俺が通りかかったのは、奇跡だね」。  血の気が引いた。ところが、そのタクシーも天の救いとは言い切れなかったのだ。夕暮れが近づくと、急に車の方向が変わった。また、なんだか知らない村に着いた。ここで終わりだからカネ払え、と来た。陽気な分だけ、残酷味が強い。われわれはその場にヘタリこんだ。もうタクシーは信用しない。とりあえず、村のレストランにはいり、ガイドブックを見て近くの町をみつけ、なるべく大きそうなホテルに電話をいれた。英語が通じて、「そこまで迎えにいってやる」となった。ようやくベッドに潜りこめた。  朝、ホテルで聞くと、ピラミッド見物のツアーが出ているという。われわれはスペイン語の申込書にサインし、バスを待った。お昼ごろにピラミッドに着き、入場まえにランチが食べられるという。ところが、われわれの席がない! 「日本人のお客さん、ランチ券ない」とか言われた。どうも、食事抜きのコースを申し込んだらしいのだ。カネ払うから食わせろ、と迫ると、「予約してないから準備できない」とのこと。しかたなく、ちかくの売店でパンを買って飢えをしのいだ。  それから先は、もう恐ろしくて書けない。生きて日本に戻れたのを、神に感謝するのみである。でも、ピラミッドはおもしろかったな??!

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Vol.5 旅に付き物の怪我と病気

掲載日:2007年2月19日 テーマ:旅 , 怪我 , 病気

海外旅行で何より気がかりなのは、体のトラブルだ。海外で病気になった場合、保険がないと高額な治療代を支払わなければならないケースが多い。昔は成田で出発前に傷害保険にはいってからゲートを潜ったものだが、最近は保険が組み込まれているクレジットカードなどもあって、安心して旅に出られるようになった。 でも、勝手がわからない旅先で怪我や病気になることは不安だ。まず、生水を極力飲まないことだが、もしトラブルが起きたら、我慢しないですぐに、保険の利く病院で診てもらうことだ。ホテルが病院を紹介してくれるときは、そこへ行ったほうが早い。町医者もあるが、日本のように分かりやすい看板を掲げている医院は少なく、マンションの一室とかビルのオフィスにあるので、探しにくい。外のインターフォンを押し、入り口をあけてもらわないと近づけないマンションの中にあったりする。そういう手間を考えると、常備薬ぐらいは日本から携行していったほうがいい。また、マスクは意外に売っていない。数年前インフルエンザがはやったとき、ヨーロッパの薬局でマスクを買おうとしたら、日本人がよく知っているようなガーゼのマスクはどこにもなかった。 反面、海外で思いがけない親切に出会うこともある。感心するのは、ハンディキャッパーに対するケアが非常に行き届いていることだ。もう歩けない高齢の母が、最後の海外旅行をしたいというので、リクエスト先のロンドンへ、車椅子に乗せて連れて行ったことがある。そうしたら、日本ではだれも手を貸してくれないのに、ロンドンについた瞬間から世界が変わった。どこでも人が飛んできて助けてくれる。母が、「小泉首相(当時)が行ったのと同じ劇場で『オペラ座の怪人』が見たい」というので出かけたところ、入り口に立っただけで係員が駆け寄ってきて、長い待ち行列を無視して中に導いてくれた。まだ開場時間前にもかかわらずだ。 そして、こんどはぼく自身が親切を受ける身になった。ある年の海外ロケ先でのことだ。古代の聖人が修行した岩山を探訪する番組なので、登山靴を履いてくるようにいわれていた。出発前に登山靴を履きならそうとしたのが悪かったらしく、かかとと足の裏に大きなマメができた。それでも、タカをくくって飛行機に乗った。しかし、出発前すでに、かなり痛くなっていたマメは、機内で寝ている間に水ぶくれ状になってしまった。パリのドゴール空港に降りたときは、一歩あるくにも顔をしかめるありさまである。 しかも、このあと乗り継ぎをする国内便のゲートまでが、えらく遠かった。水ぶくれの箇所が擦れて歩けないので、思い切ってマメをつぶした。それでも痛さは変わらない。それにしてもドゴール空港はだだっぴろい! 足をひきずって、やっと国内便ゲートにたどりついたのは、出発時刻のぎりぎり手前だった。座席でマメのあとを見ると、赤く腫れ上がっている。もう靴を履くこともできない。こんな経験ははじめてだった。マルセイユ到着後、観念して乗務員に助けをもとめた。すぐに車椅子が来て、高齢のご婦人とふたりで特別車に乗せられ、到着ロビーまで運ばれた。そこからは若い女性スタッフが車を押してくれ、外のタクシー乗り場へ移動。荷物はチケットを渡すと取ってきてくれた。 以後、旅の間ハンディキャッパーとなったぼくは、いたるところで親切な介護を受けた。しかし、ロケ・スケジュールがきつくて医者に行っている暇がない。買い薬をいろいろ試したが、腫れが引かぬどころかどんどん悪化してくる。もうダメというころ、やっとパリに戻れたので、耐え切れずに医者へ直行した。さすがにパリだけのことはあって、日本語もすこしわかる東洋医学の心得があるお医者だった。つぶしたマメの部分が膿んで、そこに水虫のかびまでが悪い作用をしているとのこと。無茶したらいけない、と厳しく叱られた。靴が履けないので、傷にあたらない健康サンダルの専門店を教えてもらい、じつに快適なサンダルも入手できた。帰国時には歩けるまでに回復したけれど、ヨーロッパでの車椅子生活がちょっとだけなつかしかった。

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Vol.6 旅人は冒険を恐れない

掲載日:2007年3月19日 テーマ:海外 , 体験

 「せっかくここまで来たのだから、ちょっと冒険してみるか」と思うのが、海外旅行者の人情というものだが、ここに落とし穴がある。あー、思い出すたびに恥ずかしい……じゃなかった、なつかしい。  冒険心と好奇心は海外旅行をいっそう有意義にする活力剤だけれど、おもしろいことに遠方に行けば行くほど、この際だから体験してやれ、という気分になる。たぶん、この機を逃したら、もうここへは来られない、と思うからだろう。ぼくの場合は中南米へ行くと一気に冒険家になってしまう。なにしろ、アメリカ合衆国で1泊し、やっと現地に着くような遠方だ。欲張っても欲張り足りない。グアテマラへ遺跡見学に行ったときのこと、あちこち回ってカリブ海側まで来たので、せっかくだから船に乗って隣国ベリーズへはいってみたくなった。大きな湖だか内海だかをボートで2時間走ると対岸はベリーズだという。5?6人乗りの小さな遊覧用モーターボートに乗ったはよいが、波が荒くて船内に打ち寄せてくる。あっというまにズブ濡れになった。荷物だけシートの下に隠し、波を浴びながら対岸のボロい桟橋にたどり着いた。じつにローカルな入国管理所がある。着替えをリュックサックから出すのも面倒だ。裸の大将みたいな格好でパスポートを見せたら、裸では入国させぬと怒鳴られた。たしかに礼を失するので、着替えをし、靴まで履いて、大汗かきかき入国審査を受けることとなった。ふつうに車で入国していればよかった……。  別の旅行でパナマに行ったときも怖かった。パナマは西側の太平洋と東側のカリブ海との距離が、ごくわずかしかない。車で2時間も走ると太平洋とカリブ海の両方を行き来できるのだ。これはおもしろい。地元でマグロなどの漁業にたずさわる知人に、パナマ横断ドライブを頼んだら、反政府ゲリラだの山賊だのがいて、きわめて危険だという。しかも、カリブ海側の港コロンの町は、日本人が歩こうものなら、10分しないうちに襲われるとのこと。「でも、どうしても行きたいなら、連れていくけど」と、長年ここで仕事をしてきた百戦錬磨の知人はつぶやいた。もちろん、行きます! 翌朝、まずパナマ運河を見学し、山へはいった。ナマケモノがいる森なども見て、いよいよ危険地帯にはいると、知人は無線で連絡、しばらくすると銃を持ったガードマンのジープが追いついてきた。問題のコロンに到着すると、われわれはここで唯一安全なヨットクラブの建物で休憩をとった。そのあと、われわれの車は前と後ろを武装した護衛車に守られながら、歓楽街の通りをゆっくりと走りぬけた。まるで戦場を進むような緊迫感だった。アー、止めときゃよかった!  でも、やっぱりいちばん怖かったのは妖怪マンガ家の水木しげる先生とニューギニア奥地に遠征したときだ。80歳をこえられた先生が兵隊として戦った当時の原始境ニューギニアをもういちど体験したいというご希望をかなえるための旅だったが、セピック川をカヌーで上る過酷な行程を選んだため、マラリア蚊とワニがうようよいる中を毎日小さな舟に揺られて過ごした。ホテルなどない。トイレも電気もない。さすがに3日めともなるとわれわれは疲れと暑さで意識混濁状態となり、水木先生が熱中症に罹(かか)られる事態となった。こんな奥地で先生にもしものことがあったら、ぼくは責任を負わねばならない。夜を徹して必死に看病した。朝になって、ようやく容態が落ち着かれた。あとで水木先生が、ニューギニアの悪霊にとりつかれた、とおっしゃったのは、さすがというしかない。ついでに、「戦争中よりひどい目にあった!」とお言葉をいただいたときには、冷や汗が出た。外国で悪霊にまで祟られてしまうことのないよう、冒険心には極力ブレーキをかけなければいけない。もう、懲りた……といいながら、次の旅までには怖かった体験をきれいに忘れるのだから、困ったものだ。

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Vol.7 中国は5000年分の文化が楽しめるが、注意も必要である

掲載日:2007.04.17

はじめて中国の旅を経験したのは20年ほど前だった。当時は、人々の多くがまだ人民服を着用していた時代で、ぼくも旅の記念品は上海のデパートで買った人民服ひとそろいであった。その当時の中国旅行は、1台のミニバスが全行程を担当し、日程も添乗員もきっちり決まっていた。風水師に会ってみたい、だの、古い中国の版画を売ってる店はないのか、だの、ふいに頼んでも対応してもらえなかった。その代わり、頼んでもいない工場見学などが含まれていた。ぼくたちは紡績工場を見学したが、なぜか幼稚園児たちに迎えられ、お遊戯を見物したあと、工場長さんと歓談した。「うちの工場は国家に褒められた優良工場です。先日、熱を39度もだした女子工員が、それでも休まずに1時間歩いて出勤してきました。模範的です!」と自画自賛されたりした。
だが、そのあと、行くたびに中国は様変わりしていた。工場見学や幼稚園児の歓迎は、人民服とともに急速に消滅し、どんどん自由になった。上海はいまやSFに出てきそうな近未来ファンタジーシティーである。北京の変容もすごい。庶民の生活の香りが立ち込めていた裏路地住宅街「フートン」は壊されてしまった。咸陽(かんよう)や西安(せいあん)のような古都も、いまや国際観光都市である。有名な兵馬俑坑には、その遺跡の発見者というおじさんがまだ健在で、ときどき土産物屋に姿を見せるが、そんなときは、おじさんと一緒に記念写真をとろうという観光客が殺到する。北京から行ける万里の長城も、すばらしいハイウエーが完成して快適に観光できるようになった。さすが中国5000年、といいたいのだが、まだ、注意が要るものもある。
ぼくの場合、中国では買い物に気を使う。最初に行ったときは、露店で売っている体操や美容の雑誌がおもしろくて、たくさん購入した。露出度の多い写真集などは販売が戒められていたので、体操など健康スポーツ関係の本ということにして刊行されていたのだ。ところが、帰りに持ち物をチェックされ、これら色っぽい体操雑誌のことを説明するのに苦労した。兵馬俑坑のショップでは、実物大の大きな兵馬俑が売られていたので、欲しくなった。値段を聞いたら、最初は10万円だといっていたが、値切るとおもしろいように安くなった。3万円で手打ちとなり、これは安いと思った直後、日本に持って帰るには手荷物で飛行機に載せられないから別運賃だ、ときた。とても航空便では送れないから、船便でと頼んだら、本体よりも高くついた! ついでだが、ロシアでも買い物には苦労させられる。高級キャビアを3缶買って持ち帰ろうとしたら、持ち出し制限オーバーだから1缶置いていけと命じられた。高かったので、それは困ると食い下がったら、なら、ここでぜんぶ食べろ、といわれたことがある。
きわめつけは、咸陽の始皇帝宮殿跡を見物したときのことだ。2000年以上前の遺跡にもかかわらず、当時の瓦だのタイルだのの破片がそこらじゅうに転がっていた。ぼくは感動して、かけらを拾い歩いていたら、中国の考古学者に注意された。たとえ破片でも歴史的古物は持ち出しが禁じられており、出国のときに調べられる。知らなかった、では通らない、と。ロシアも古物の持ち出しについては厳格なので、骨董に趣味のある人はとくに注意しなければならない。たとえ骨董店で売ってくれても、税関でオーケーしてくれないこともある。でも、中国ですごいものを買ったことがある。北京、天安門広場は凧揚げのメッカになっており、大小さまざまな手作りタコが揚げられている。あるとき、長さ5メートルはあろうかという巨大な竜凧が、まるで本物の竜のように生き生きと空を舞っている光景にぶつかった。あまりにすごいので、どうしても欲しくなり、作ったご本人と交渉した。制作に3か月要したので売れないといわれたが、無理矢理2万円で売ってもらった。しかし、あまりに大きすぎて、東京ではこれを揚げる場所がみつからず、まだ空を泳がせたことがない。

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Vol.8 港発、バカ歩きの楽しみ

掲載日:2007.05.22

近年目立って人気を博している海外旅行のスタイルに、豪華客船による世界周遊がある。わたしも過去4度ほど乗船したことがあるけれども、熟年カップルが集う楽しいサロンのような雰囲気がたまらない。70歳、80歳の大先輩も乗られるので、こうした方たちの昔話を親しく拝聴するチャンスもある。
客船の場合、家自体が乗り物になっているようなものだから、荷物の出し入れが必要でなく、また相当大きな買い物をしても部屋に置いておける。キュリオケースやグランドファザーズクロックのようなおしゃれな家具を買って帰ることも可能だ。また、みやげ物の買い方も工夫ができる。たとえば寄港する街街でカバをかたどった商品を探す。北極や南極に近い寒い国でカバの玩具に出会ったりすると、感慨無量となる。そういう収穫を船室に飾っておくと、下船時には100を超える大コレクションが完成する! また、航海中は電子メールだの気功だの学ぶことができる。飛行機の旅にはない楽しみだ。
客船の旅は、世界一周の場合100日ほどの期間を要するので、乗船中にかならず親しい旅仲間ができる。わたしもそういう仲間ができて、下船後もずっとお付き合いがつづいている。そんな仲間と楽しむのが、「バカ歩き」である。港に着くごとに埠頭からまっすぐどこまでも歩いて、街を体験する小ツアーのことだ。バカみたいにむやみに歩いて、地元の人にいろいろ助けてもらい、コミュニケーションする。地図を持ち、水と小銭を用意して、あとは知らない街をひたすら歩く。ヨーロッパの港町はおもしろくて、目についたレストランやパーラーに立ち寄りながら、食べ歩ける。歩くものだから、すぐに喉が渇き、お腹も減るので、いくらでも食べられる。アジアや南米はちょっと治安が心配だが、5、6人で歩くので不安はなくなる。その国の言葉を3つか4つ覚え、あとは身振り手振りでなんとか押し切る。むちゃだが、船の旅仲間との連帯はぐんと強くなる。
しかし、熱帯地域ではひどい目にあったこともある。日照りと水分不足が難敵なのだ。
気温40度などという砂漠の中を歩くと、先に何も見えないということだけで疲労がたまってくる。でも、みんな一緒だから弱音は吐けない。ついがんばってしまうため、火ぶくれや熱中症に見舞われる。わたしはカリブのバハマ島を海岸沿いに歩いて半周しようとしたが、ものすごい日照りに負けて、最後は地元民の車で船まで送ってもらう羽目になった。その夜は焼けた背中が痛くてベッドに寝られず、ぬるま湯を張って浸かりながら風呂の中で寝た。そういう「バカ」をやらかすので、誰いうともなく「バカ歩きの会」となった。
しかし、バカだからこそ人の情けにも触れられる。バカ歩きをした港町で、翌年も同じコースを歩くと、みんなが覚えていてくれて、思わぬ歓待を受けるのだ。「おー、港から歩いてきた日本人か!」と。これは船旅でしかできないことだ。なぜなら、どんなにむちゃくちゃに歩いても、船に帰り着くことは比較的容易だからだ。「港へ連れてってくれ」と現地語で言えさえすればいいのだから。

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Vol.9 急な海外旅行は苦労する

掲載日:2007.06.18

海外旅行をトラブルなく終えるには、一にも二にも、事前の準備が肝要。できるだけ、日本で事前に予約などを完了しておいたほうが、よい……というアドバイスは真実だが、正直な話、そうはいかない旅も多い。仕事優先の生活では、何ヶ月も前に綿密に旅行を計画しても、かならずどこかで崩れ去る。いっそ、空きができた当日に空港へ直行し、その場で乗れた便によって旅先を決めようか、と思ってしまう。
ごく最近はインターネットがあって、直前旅行専門にエア・チケットからホテルまで、いろいろ便利なサービスを提供するところもでてきたが、それまでは突然の海外旅行は、えーい、どうにでもなれ、と、やみくもに現地へ飛んでしまうしかなかった。しかし、見知らぬ国では思うにまかせない。まずホテル探しでめげてしまうのだ。大きなホテルはセキュリティーなどの関係で、飛び込みの場合、「満室です」と慇懃に断られる。探しまわった挙句、星なし、鍵かからず、の安ホテルにやっと救われる始末。そこへ行くと今はインターネットを通せば、前日、当日でも高級ホテルでも日本から部屋が取れるようになった。わたしの知り合いは、予約なしでホテルに着いたら、その場でインターネット予約をし、その足でデスクへ行ったりする。理由は、そのほうが割引になる可能性があるから。
航空機予約もネットのおかげで格段に楽になったが、旅行直前に飛行機の便を押さえようとすると、限りなく正規料金に近い金額になるのは覚悟だ。ほんとうに直前、たとえば明日出発便ぐらいになると、思いがけなく格安チケットが入手できる代理店やサイトもあるが、ロンドンとかパリのような有名どころに集中する。旅行会社主催のツアーで安く行こうとすると、ふつうは2週間前までに予約をいれないと受けつけてくれないので、急場は無理だろう。
突然の海外旅行や、見知らぬ国へ事前学習なく行く場合、ほんとうに地獄なのは、現地で足を使って歩き回るときだろう。わたしのような方向音痴は、列車やバスなど公共交通の乗り方から苦労が始まる。昔、イギリスで、ケンブリッジ行きの電車を乗り間違えた。あわてて、駅に出迎えにきてくれる友人に連絡しようと公衆電話をかけたところ、コインが投入口にはいらない! 鬼の形相でコインをギューギュー押し込んでいたら、親切なおばさんが「交換につながると、ちゃんと穴が大きくなってそのコインもはいるから」と教えられた。公衆電話一本かけるのにこの騒ぎだ。また、だだっぴろいマンハッタンのセントラルステーションでは、構内があまりに広くて複雑だったため、乗り込むホームをみつけるまでに2時間かかった。大荷物を引きずってあちこちを飛び回ったため、疲労のあまりそのホームにへたりこんだ。ほんとにガイドがほしくなる。
海外には、日本人が個人でやっている旅行ガイドがあって、昔は口コミだったが、今はネットですぐにみつけることができる。劇場チケットやらイベント参加の手配、買い物のお付き合い、またアポ取りなど細かいこともやってくれるが、最低10日ほど前には申し込まないと、動いてくれないのがふつう。よほど度胸があって勘がよくないと、出たとこ勝負の旅は危険なのだ。旅行「凡人」としては、開き直って数々のトラブルを楽しむしかないのかもしれない

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Vol.10 熟年世代の海外旅行は「賢い旅」で

掲載日:2007.07.17

このコラムでは毎回、失敗談を書き連ねて反面教師の役目に徹しているわたしだが、さすがに還暦を迎えて海外旅行のスタイルも賢い方向に変化する兆しがでている。
賢くなったきっかけは、南の島への旅行だった。ある年の7月末、静かな南の島で缶詰になって小説を書くことにしたのだが、例によって沖縄などは混雑してエアチケットも取りにくい。インターネットで空きを探していたら、サイパンのリゾートホテルがスイートルームを格安で出しているではないか。夏休みの真っ最中なので、どうせ取れないだろうと思いながら、通信してみたら、みごとに予約が取れた。でも、まさか飛行機までは無理だろうとは思いつつも、念のためにサイパン便を探したところ、これがまたマイレージを使って取得に成功してしまった。
なぜ? と半信半疑のままサイパンに出かけてみて、理由がわかった。サイパン島が手近な外国として大人気だったのは、もう昔の話。大ホテルが林立し、ショップもモールもあるのに、どうも日本人客が少ないのだ。10年ほど前に行った大モールなどは、閉店して廃墟のようになっていた。自然以外はさして見どころのない島なので、日本人に飽きられたらしいのだ。したがって、ホテルも、サービスも、ぐっと手ごろな値段になっていたのだ。
しかしこれは逆に、われわれのような自由時間を持つ世代には福音となる。ダウンタウン以外は静かな環境が戻ったサイパンにとっては、自然と静かさを楽しめる熟年世代こそがほんとうのお客なのだ。マイアミのような老人天国になるべきなのだ。その証拠に、わたしはサイパンに来て気分が集中し、1週間で小説を書き上げた。若い頃以来の快挙である! これはひょっとすると、新しい老人リゾートの萌芽ではないかと直感し、もう10年以上行かなかったグアム島へも同じ方法で旅に出てみた。すると、こっちはもっとすごかった! タモン湾に並ぶ、さながらワイキキビーチのごとき大ホテル群は、もはやハワイなみの洗練ぶりを見せているではないか。その昔に宿泊した第一ホテルも藤田観光ホテルも、もうなかった。新しいホテルは広大なテラス付きのスペシャルスイートを、正価の三分の一以下で泊まらせてくれた。もちろんエアチケットも格安をゲットできた。タクシードライバーに聞くと、日本のお客は最盛期の半分以下です、と教えてくれた。まさに、老人旅行者の穴場となっていたのである。
わたしたち夫婦は、還暦祝いになにか新しいことに挑戦しようと、ダイビングセンターへ行き、ライセンスが取れる2日間初級コースに参加した。日本で取得するより安いし、ビーチから入れる安全な海を堪能できた。英語ができなくても心配ないところが、さらにいい。現に、日本人の定年退職組が団体でダイバーになりに押し寄せてくるそうなのだ。
先進国の老人は寒い季節を逃れる目的で南のリゾートに集まり、長逗留する。また、そのための静かなリゾートが、世界には多い。ハワイやカリブの島々も、じつはそういう役割をもっている。古くから有名なリゾートは、ブームが過ぎるとおおむねそのような役割に移行するらしい。サイパンもグアムも、ひと頃の若者たちや社用族ゴルフ組の島というイメージから脱皮しつつある。近くて格安なので、家族連れや熟年カップルのプライベート旅行者に向くリゾートになりつつある。これを活用できれば、賢い海外旅行への第一歩となる、とシルバー世代初心者のわたしは、考えたのであった。

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Vol.11 チャーター便で島めぐり

掲載日:2007.08.21

わたしは元来、絶海の孤島を探訪するのが好きで、ずいぶん無茶をやってきた。鳥も通わぬ離れ小島へ行くことは、そう簡単ではなく、定期便がないところも多いのだ。そこで、最初は運を天に任せるしか方法がなかった。国内では、まず港に行って漁協や漁船の船長さんをみつける。事情を話すと、ときおりだが、その島へ行くボートがあるから乗せていってやる、という親切に出会えるのだ。奄美地方や沖縄周辺の小島めぐりはこの方法で目的達成となった。人の情けが身に沁みるのである。
けれども、はるか南洋の群島になるとそうはいかない。事前に目的地へ行ける手段を講じてから出発しないと、大変なことになる。なぜなら、太平洋でも大西洋でも、島の多くは軍事基地化しており、一般観光客がはいれないからなのだ。たとえば、小笠原諸島の先にある硫黄島は、太平洋戦争の激戦地だった。現在も自衛隊関係者しか立ち入りできず、旧島民も帰島できない。冒険家の中には、米軍統治時代に軍用機に便乗させてもらって行った、などという武勇伝を語る人がいるけれども、自然環境や生物の調査といった名目が必要だったはずだ。
では、われわれ一般人が行けるチャンスはないのだろうか? じつは、わずかながらあるのだ。そのひとつは、南洋諸島戦没者慰霊のために組まれるチャーター便に参加することである。20年前、激戦地だったラバウル島を見に行けたのは、この方法だった。この島に出征され片腕を失くされたマンガ家水木しげる先生とともに慰霊のためのチャーター便に参加した。また、パラオのコロール島にあった世界最初のサンゴ礁研究施設「パラオ熱帯生物研究所」の取材旅行も、チャーター便で一回、船による慰霊団の旅行で一回、実現させることができた。現在パラオは定期便でも行けるが、グアム島経由なので待ち時間が長く、非常に不便な旅となる。ところが日本からチャーター便だと直行4時間だ。あまりにも便利なので、今年もJALのパラオ・チャーター便(かなりの頻度で出る)を利用し、出かけてしまった。時差がないうえに、深夜着の深夜発なので日程の無駄もない。ボーダフォンだったから日本へも携帯電話がかけられる。ダイバーさんや若いカップルなども増え、このチャーター便の人気がうかがえた。
さて、さらに絶海にある孤島へは、チャーター便もないといった場合がある。だが、外国の客船クルーズという救済もあるのだ。たとえば、戦艦バウンティー号の反乱事件を起こした水夫たちの子孫が住む南太平洋の島ピトケアン、皇帝ナポレオンが幽閉され死去した大西洋の島セントヘレナなど、歴史上有名なのに正規の到達手段がない島は、ときどきクルーズルートにはいることがある。わたしは珍しいセントヘレナの海の生き物を日本に持ち帰りたかったので、現地役所にファクスを出し、生物採集の許可と案内を得たことがある。こうした定期便のない僻地にたどりつくたびに、文明のひろがりのものすごさを実感せずにいられない。

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Vol.12 海外にて遊子かなしむ

掲載日:2007.09.18

わたしはときおり若い人々に、「遊子」になることを勧める。それが、海外旅行の達人になる第一歩だと思うからだ。
遊子とは、古い言葉だが、「旅人」の意味である。でも、ただの旅人ではなく、独り旅をする人をあらわす。「旅」という漢字のつくりを見ると、下半分が「人人」になっていることがわかる。これは集団を意味しており、中国では兵士が500人単位になって行軍することをあらわした。つまり「旅団」であり、現在なら、団体旅行である。ところが、「遊」は違う。この漢字から「しんにゅう」を除くと「旅」によく似ることに気づくだろう。だが、つくりの下半分が「人人」でなく、「子」である点が異なる。子とは独りで自由に動き回ることを示す。その代表は神や貴人だから、神が旅することを「旅行」といわずに「遊行(ゆぎょう)」という。決められた団体旅行ではなく、心の自由な独り旅だ。そういう旅をする人を遊子という。
わたしもまだ20歳代のころ、アメリカを独りで旅したことがある。そのときの経験ほど忘れがたいものはない。夏にロサンゼルスでSF大会が開かれると聞いて、日本からも、本場SFファンのお祭りを見に行ってみようという機運になった。当時サラリーマンだったわたしは、「会社創設以来はじめて」という10日間の長期有給休暇を申請し、「帰ったら席がないものと思え」と上司からありがたい言葉を頂戴しつつ、今は亡きパンナム機で羽田からロスへ向かった。行きは、同世代のSF仲間も一緒だったが、帰りはNYから独り旅である。実に心細かったが、同時に国を越えた人情も実感できたのだった。
そのころ、飛行機のチケットは日本で買えたが、ホテルは現地で予約するしかなかった。日程ではロスに戻って1泊し、大韓航空で羽田に帰着することになっている。有給休暇を目いっぱい取ってきたので、一日も遅れることはできない。わたしは安心のため前日にロスへはいった。1泊分のホテル予約だが、ロスで知っているホテルといってもSF大会の会場となったマリオットだけ。NYマリオットの予約センターに電話をいれたけれど、うっかりNYにいるから、といってしまった。
夜便でロスに着き、ホテルへチェックインしようとしたら、案の定、予約がはいっていないという。たぶん、NYのほうへはいってしまったのだろうが、予約がないと泊められない、とおそろしいことを言われ、途方に暮れた。考えた末に、SF大会で知り合ったフォレスト・J・アッカーマンというSF界のビッグネームに身元保証をしてもらうことを思いついた。じつは、面倒見のよいアッカーマン夫妻がSF大会の期間中、貧乏なわたしたち日本人ファンを、「SF界最大の書物コレクション」を誇る自邸に招いて、図書室に泊めてくれたのだった。
わたしはアッカーマン邸に電話した。切羽詰まっているときは、英語も必死にしゃべるものだ。奥さんに事情を説明すると、「それなら、遠慮なく家に泊まりなさい」と、信じがたい親切な言葉をいただいた。でも、明日は朝が早い。感謝しつつ申し出を辞退し、フロントの人にとりなしをお願いした。このとき、アメリカ人のスマートな親切ぶりに感動した。翌日、やっとの思いで大韓航空の機内に乗り込み、流れていたクールファイブの「長崎は今日も雨だった」を聞いたときは、ほっとして泣けてきた。海外旅行が本気で好きになった。
遊子でなければできない体験。たぶん、海外旅行はそこから始まるべきなのではないか。

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荒俣 宏(あらまた ひろし) 1947年東京生まれ。慶応大学法学部卒。10年間の会社勤めの後、文筆家として独立。日本に博物学、オカルティズム、風水、陰陽道のブームをまきおこす仕掛け人の役割を果たした。著書に『帝都物語』『妖怪大戦争』『レックス・ムンディ』など。

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