「荒俣宏おもしろ毛髪雑学」

万有製薬HPの「AGA-news」での連載。 計12回。 09/03/中旬 〜 09/08ころ。正確には

2009.05.29 1 古代日本人男性の定番ヘアスタイル「みずら」
2009.06.05 2 目にした人は少ない?というヘアスタイル「髻(もとどり)」
2009.06.12 3 キューバ革命のチェ・ゲバラの頭髪が何と10万ドルで落札!
2009.06.19 4 ヘアダイの歴史が長いフランスの毛髪事情
2009.06.26 5 「月代」。この漢字、読めますか?
2009.07.03 6 カカァ天下のそのわけは?
2009.07.10 7 ザンギリ頭が流行った時代
2009.07.17 8 角刈りはどうして生まれた?
2009.07.24 9 レゲエ・スタイル発祥の地はジャマイカですが…
2009.07.31 10 かつらで権威をアピールした英国法廷
2009.08.07 11 リーゼントはどこに行った?
2009.08.13 12 インド人って、なんでターバンを巻いてるの?

かも[伊]。

最初にヘアースタイルなどについて解説があり、その後 荒俣がワンポイントコラム(300字程度)を添える、という構成でした。

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[見出し]
毛髪は、その人の個性をあらわすだけでなく、
それぞれの国や地域の歴史や文化も物語ります。
そんな毛髪のちょっと面白いお話を荒俣宏さんの
ワンポイントコラムをまじえ毎週掲載していきます。(全12回)

1. 古代日本人男性の定番ヘアスタイル「みずら」

ヤマタノオロチを退治した須佐之男命(スサノオノミコト)、「因幡(いなば)の白うさぎ」の大国主命(オオクニヌシノミコト)など、日本神話の挿絵などに登場する男性神は、皆左右に分けた髪を耳のところでひょうたんのような形に束ねています。この髪型を「みずら(美豆羅、美豆良、角髪)」と言います。 3世紀の「魏志倭人伝」で邪馬台国のようすが描かれた一文にも「男子皆髪は“みずら”、木綿を頭にかけ、その着衣は横幅の広いものを、ただ結束して相連ね、縫うことはない」と記されているとおり、みずらは、古代の日本男性にとって、定番のヘアスタイルだったようです。 ただし、散髪の習慣がない古代において、毛髪は伸ばし放題でした。戦や労働を担う男性にとって、みずらはファッションと言うより、じゃまな髪の毛をまとめる「生活の知恵」だったのかもしれません。同じく魏志倭人伝で女性の髪型は「婦人は髪を束髪のたぐい」だったと記されています。つまり、女性は当時から、伸ばした黒髪を垂らし、風になびかせていたわけですね。 その後、古墳時代から大和時代に至るまで、みずらは男性、特に貴族クラスの人の髪型として定着しました。古墳から発掘される埴輪を見て「耳が大きいな」と思った人、いませんか? あれは耳ではなく、みずらを結った男性を表しています。

<荒俣宏のワンポイントコラム01 みずら>

古代と言っても2000年前くらい前の話ですから、髪の毛はすでに実用を脱して、おしゃれやメッセージの役割をもち、「みずら」も神聖なものとして扱われていたはず。「みずら」はカジュアルな感じではないので、位の高い人に許された、ある意味シンボリックな、ファッション的な髪型だったのかもしれません。そしてこれは弥生時代よりもっと前、縄文期時代からあったとも考えられます。三内丸山古墳の頃には、すでに大陸との貿易が盛んだったと言われるように、古代の日本は、我々が想像するよりもずっと国際的だったんです。実は、その頃「大陸じゃこんなものが流行ってるらしいぜ」なんて、はじまったのかもしれないですね。

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2 目にした人は少ない?というヘアスタイル「髻(もとどり)」

飛鳥時代に入るころになると、古代日本男性の定番だった「みずら」にかわって、「髻(もとどり)」という髪型が登場します。以降は、主に男性貴族のスタンダードな髪型として定着し、現在も宮廷行事などに引き継がれています。しかし、その長い歴史を振り返って、もとどりがいったいどのような髪型だったのかを示す、文献や図画などが極端に少ないそうです。その理由は、「人に見せられない」ものだったから。 ・・・もちろん、格好が悪かったというワケではありません。もとどりには、普通のヘアスタイルとはちょっと別の役割があったのです。 聖徳太子の業績として有名な「冠位十二階制」を覚えていますか? 冠位とは文字どおり人の役職や身分を冠(かんむり)の色や形などで表すことで、飛鳥時代に中国からわたってきた慣習です。そして、この冠をかぶりやすく、しかも安定するように、伸ばした髪を頭の上でまとめ束ねたのが、もとどりの起源と言われています。つまり、もとどりは冠を体裁良く見せるための基礎、今で言えば洋服の肩パットや、シークレットブーツのヒール(?)のような役割を果たしていました。それだけに、当時、冠を人前ではずして、もとどりを人前にさらけ出すことは、今で言えば人に下着姿を披露するような恥ずかしいことだったわけです。

<荒俣宏のワンポイントコラム02 もとどり> 権威の象徴として、髪だけではもの足りなくて、冠とか烏帽子などかぶりものに流れたのは、いわば必然的だったかもしれません。ちなみに、江戸時代の絵などを見ると、病人はたいてい、歌舞伎の助六みたいに鉢巻を巻いています。あれも、たとえ病気でも自分は文明化された人間だという一種の権威をあらわしていたと考えられます。妊婦の腹帯も元々は鉢巻だったとか。神功皇后が応神天皇を身ごもったまま戦に行きますよね。あの時に、同行した巫女が自分の鉢巻をお守り代わりに、皇后の腹に巻いたのが起源といわれていますから、やはり神聖なものなんですね。

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3 キューバ革命のチェ・ゲバラの頭髪が何と10万ドルで落札!

フランスの哲学者、サルトルに「20世紀で最も完璧な人間」と言わせしめた、アルゼンチン生まれの伝説的革命家、チェ・ゲバラ。彼がボリビアで処刑されてから長い歳月が過ぎましたが、世界各国でゲバラの顔写真をプリントしたTシャツやグッズなどが販売されるなど、ゲバラは今なお絶大な影響力を誇っています。平和な国には縁のない人物かもしれませんが、日本でも彼のグッズが売られています。Tシャツに、ひげづらで髪を無造作に伸ばし、戦闘服に身を包んだ男がプリントされていたら、それは恐らくゲバラです。 このゲバラの没後40年にあたる2007年、彼の遺髪がオークションにかけられました。ボリビアでゲバラの拘束に関わったCIA(アメリカ中央情報局)の工作員が、「任務遂行の証」として遺体から切り取ったものなのだとか。まるで江戸時代の話ようですが、もっと驚かされるのが、その落札額です。約8センチあまりの毛髪の束につけられた金額は、なんと10万ドル(当時のレート約1140万円)。・・・ゲバラは名誉や富にはまったく一切興味を示さず、キューバ革命のあと、政府の要人となっていた時期でさえ、軍服や着古した将校服をまとい、粗末なアパートに住み続けたといいます。そんな彼が、自分の毛髪の値段を知ったら、いったいどう思うでしょうか?

<荒俣宏のワンポイントコラム03 チェ・ゲバラ>

DNA解析などもありますから、今は毛髪1本でいろんなことがわかってしまう。ナポレオンの毛髪からヒ素が検出され、殺害の可能性が示唆されたなんてニュースもありましたよね。これはまさに個人情報。そう考えると、有名人の遺髪などは、今後さらに価値が上がってくるのではないでしょうか? 昔、日本人が髪の毛を粗末にしなかった理由の1つには「わら人形に髪の毛を編み込まれて呪われる」なんてことがあったからなんですが、だんだんそれに近い話になってくるかも・・・。このままだと、へたに髪の毛1本落とせない時代が、近々来るかもしれませんよ。

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4 ヘアダイの歴史が長いフランスの毛髪事情

ヘアダイ(ヘアカラー)の歴史は古く、古代エジプトではすでに社会的地位をあらわすために髪の毛を赤や緑に染める習慣があったと言われています。このほか、古代ギリシャではブロンドヘア、ローマでは黒髪がもてはやされ、それぞれ手を変え品を変えながら、髪を理想の色に染めていたようです。ちなみに、これは主に男性の話。現代と違い、宗教的な意味合い、地位や権力をあらわすものとして、毛髪への関心は女性よりもむしろ男性のほうが強かったことがうかがえます。でも、今日一般的に使われているヘアカラーは1883年にフランスのP・モネーが染色特許を取得して商品化したのがはじまりです。 ヘアカラーだけではなく、毛髪に関する歴史をひも解くとフランスの名がひんぱんに登場します。最古の理容組合誕生(11世紀)、近代理容業の祖と言われるメヤーナキールはもともとパリの外科医でした。また、17世紀に身分の高い男性が大きなカールのあるかつらをかぶるようになったのは、ルイ13世がうす毛をかくすために用いたことに端を発すると言います。さらに、ヨーロッパ男性の髪型が短く地味になったのはフランス革命がきっかけだったとも・・・。さすがおしゃれなフランス人。毛髪に関しても強いこだわりと影響力をもっていることがわかります。

<荒俣宏のワンポイントコラム04 ヘアダイ>

確かにフランス人は、今はおしゃれ。・・・しかし、18世紀末、フランス革命直後のパリの町は、道は糞尿やゴミであふれ、馬車でしか走れないようなところで、とてもファッションどころの話ではなかったようです。それがナポレオン3世とパリ市長が1850年頃から必死になって町を大改造したわけですね。明治政府を代表して、岩倉使節団がパリを訪れた1872年は、リニューアル終了の2年後。彼らが見たのは、まさに、できたてホヤホヤの新しいパリ。もし20年早く訪れていたら、「フランス人はおしゃれ」なんて評価は、今もなかったかもしれません。

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5 「月代」。この漢字、読めますか?

答は「さかやき」。でも、「つきしろ」と読んでも間違いではありません。これは平安時代後期以降の男性の髪型で、前額から頭の中央にかけて、頭髪を月形に剃り落として、後部の髪は二つ折りにして上部に乗せる、いわゆる「ちょんまげ」ヘアです。 「月代」を、なぜ「さかやき」と読むのでしょうか? その語源としては主に2つの説があります。 語源その1は、「さか」は冠、「やき」は鮮明という意味を持っていて、冠をかぶるために剃り落とした前額の剃りあとがピカピカと鮮やかに光っていたからという説。語源その2は、冠をつけたり、応仁の乱以後には武士が冑(かぶと)をかぶったりしたときに、頭が熱くなってのぼせるのを防ぐために前額部を剃ったことから、逆気(さかいき)が転じたとする説。 有力なのは、その2のほう。鎌倉時代から室町時代にかけては位の高い人は相変わらず髪を切らず、冠下の髻(もとどり・2号目参照)を結っていたのですが、一般の人は髪を切るようになっており、武士は冑(かぶと)の下の頭髪の一部を、剃ったり、抜いたりするようになっていました。冑をかぶると、熱がこもって本当に頭が熱く、苦しかったのだそうです。「大月代」(おおさかやき)、「半頭」(はんあたま)、「中剃り」(なかぞり)などの変形型も登場し、江戸時代になると町民にも広まりました。

<荒俣宏のワンポイントコラム05 月代>

ちょんまげ+月代はもともと戦闘ファッション。だから、江戸時代に入って平時に戻れば、髪型ももとに戻せば良かったのですが、京の公家と武士を分けるシステムとして、戦闘ファッションを残したわけですね。ただ、武士も文化人にしようと、江戸幕府は茶筅髷(ちゃせんまげ:茶筅のような形にした髷のこと)のようなまっすぐ立つ荒々しい髷を結うことは禁じます。これにより、武士の髪型は時代劇で定番の、頭に海苔巻きをのせたような形になっていきます。このスタイルが、戦国系の武将などにはえらく不評だったとか。確かに、髷は宮本武蔵のように豪快に立っていたほうが強そうですよね。

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6 カカァ天下のそのわけは?

江戸時代の男性のヘアスタイルといえば、月代(さかやき)を剃って髷(まげ)の先を銀杏(いちょう)のように広げた「銀杏髷(いちょうまげ)」や、髷の毛を細くまとめた「小銀杏髷(こいちょうまげ)」、さらに、月代を剃らずに、前髪をなでつけて後ろで引き結ぶか、髷を作った「総髪(そうはつ)」など、けっこう、いろいろありました。 当時、武士が髪を結ってもらったのは浮世床。当時のヘアサロンといった趣の場所ですが、ひまなご隠居が髪を結うでもなく、ただおしゃべりのためにふらっと立ち寄ったりもしていたようです。ただし、中級以下の武士は、ひんぱんに髪を結ってもらうほど豊かではないので、髪の手入れは、もっぱら女房の仕事。このため「カカァ束ね」とも言われていました。 これが、たいへんな力仕事だったとか。髷に後れ毛があると、だらしないからと、男の人の頭は1本の後れ毛もないように鬢付け油(びんつけあぶら)で固めてあります。これをとかすだけでもたいへん。さらにそれを引っ張って伸ばして強く、くくって折り曲げ、髷を作るのですから、若くて毛の量が多いとホントに重労働だったようです。亭主の髪を結ううちに奥様はどんどんたくましくなっていったわけです。 ちなみに、武士の髪型を「ちょんまげ」と言いますが、本当は、年老いて髪の量が減って大きな髷が結えなくなり、ちょっぴりの髪で髷を作ったのをちょんまげと呼んだそうです。

<荒俣宏のワンポイントコラム06 カカァ天下>

江戸の町では、火鉢や布団など日用品のほとんどがレンタルだったのを知っていますか? 損料屋(そんりょうや)というレンタル業者がいて、必要なものは何でも貸してくれた。江戸の町はそうやって、いろんなものをみんなで使い回し、ムダを出さない「リサイクル社会」だったわけです。ふんどしまで貸してくれたそうですよ。でも、そんな中で女性の人口だけは極端に少なかった。初期の江戸の町は人口のだいたい1割か、それより少ないくらい。だから髪を結ってくれる女房なんて「超レアもの」。奥さんや嫁さんではなく「カミさん」と呼ばれ、あがめられていたのも無理のない話です。

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7 ザンギリ頭が流行った時代

「半髪頭をたたいてみれば因循姑息(いんじゅんこそく)の声がする。惣髪頭(そうはつあたま)をたたいてみれば王政復古の音がする。斬切り頭(ざんぎりあたま)をたたいてみれば文明開化の音がする」 明治4年8月9日に発布された「断髪令」に先だって、この有名なコピーを新聞に掲載させたのは、西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」と並び称される、木戸孝允(桂小五郎)です。明治維新後の新政府は、欧米に追いつけ追い越せとばかりに、西洋文化・思想の導入に積極的でしたが、頭の中を変える前に「まずはヘアスタイルから」。つまり、武家社会の象徴でもあるちょんまげを切り落とし、ザンギリ(斬切り、散切り)頭にすることを推奨したわけです。ただし、この断髪令には強制力がなかったので、発布当初は、長年慣れ親しんだ髷(まげ)を切り落とすのを拒む人も多かったようです。このため、ちょんまげのままでいる人には税を課すなどという県もあったのだとか。 そこで明治6年3月20日、明治天皇は「国民にザンギリ頭を定着させるために」と、自らすすんで断髪をされたそうです。そんなパフォーマンスの甲斐あってか、その後、徐々にザンギリ頭にする人が増え、総髪撫付(そうはつなでつけ、オールバック)、中割(真ん中分け)、開化頭(長髪の七三分け)など、ザンギリのバリエーションも登場するようになりました。

<荒俣宏のワンポイントコラム07 ザンギリ頭>

幕末の志士で、西洋人にあうと馬鹿にされるということで、維新前にいち早く断髪した人がいます。でも、まだ江戸時代なので髷を結っていなければ登城ができない。それどころか外出もできないわけです。仮病でしのごうとしたけれども、結局ばれて謹慎処分になったのだとか。でも、この人もいわゆるファッションリーダーと言えるでしょう。ちなみに維新後、東京府(現在の東京の前身)では女子断髪禁止令が出されています。これは断髪令を受けて女性がどんどん短髪にしちゃったからなんですね。いざというとき、女性のほうが変化を受け入れるキャパシティは大きいようです。

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8 角刈りはどうして生まれた?

ねじり鉢巻きがいちばん似合う髪型といえば、なんといっても角刈り。祭り袢纏(はんてん)にピッタリはまるのも角刈り。粋でいなせな、日本男児ここにあり、というりりしさ男臭さが漂う一方で、清潔感あふれる髪型です。今も職人さんなどの間で絶大な人気を誇るこの髪型が大流行したのは、大正時代。大正デモクラシーを背景に大衆文化が栄え、ダンディズムが語られ、上流層にも下流層にも受け入れられた短髪スタイルが角刈りだったのです。 でも、そのルーツは、どうやら明治時代の文明開化のころにあるようです。断髪令発布後、髷を切った髪型のバリエーションに「ジャンギリ(斬切)」というのがあって、それがイガグリ型の短髪、つまり角刈りに近いヘアスタイルでした。大正時代には、前頭部と後頭部をさらに刈り込んで、角刈りよりもさらに鋭角に仕上げる「小松刈り」というスタイルも流行ったそうです。 角刈りや小松刈りのように髪の毛が立ったヘアスタイルを、専門用語ではブロース・カットと言います。ブロースとはブラシ。このブラシの長さでシルエットが変わり、名称も変わります。たとえば、頭頂部の平らな面が広く角が鋭いのが角刈り。そして、平らな面が狭くなる(シルエットが丸くなっていく)に従って、「角丸」、「スポーツ刈り」、「坊主」となっていくのだそうです。

<荒俣宏のワンポイントコラム08 角刈り>

単に髪の毛を刈り込むだけではなく、剃り込みを入れたり形を細かく整えたりと、角刈りは意外と手間のかかる髪型です。シンプルに見えて、実は手が込んでいる。そういうものを「粋だ」と言って、特に好んだのが江戸の職人たちなんですね。時代劇で登場する遊び人は、頭上の髷をぐいっと斜めに曲げた髪型をしていますが、あの「いなせ髷」も、日本橋の河岸あたりの職人がやり始めたのだとか。変わったもの、新しいものが大好き。そんな彼らの「粋」へのこだわりが、ただの「ジャンギリ」を角刈りというファッションに変えたのかもしれません。

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9 レゲエ・スタイル発祥の地はジャマイカですが・・・

レゲエ・ミュージックといえば、陽気なカリビアン、そしてビーズなどで飾りつけた「ドレッドヘア(ドレッドロックス)」が思い浮かびます。しかし、一見楽天的なレゲエ・スタイルの根底に流れるラスタ(ラスタファリズム)とは、1930年代にジャマイカで発生した宗教的思想で、黒人であるジャマイカ人のアフリカ回帰などを訴えたもの。レゲエとは元来、このラスタを伝えるためのメッセージソングだったのです。 レゲエの象徴とも言えるドレッドヘアも、実はファッションとして生まれたものではありません。ラスタには髪を切ったり、髭を剃ったりしてはならないという道徳律があるのですが、これを長期間続けると、もともと「縮毛」という特徴を持った黒人の髪は互いに絡み合い、あのロープのような独特の形状になるわけです。その起源もジャマイカではなく、一説にはアフリカと言われており、古代エジプトの遺跡にはドレッドヘア姿の人物が描かれたレリーフも残されています。ただし、縮毛の人が自然に髪を伸ばせば、ドレッドヘアになるのは当然なのか、古代ローマ時代の記述には、「まるで蛇のような髪型」というケルト人の髪型について記載されているほか、インド人やゲルマン民族、バイキング、ギリシャ人などなど、ドレッドヘアの起源は諸説さまざまです。

<荒俣宏のワンポイントコラム09 レゲエ・スタイル>

レゲエ・スタイルとは、まさに抵抗運動。だから、ドレッドヘアというのは文明化されていない、規範からはずれたスタイルの象徴と言ってもいい。こういったものに対して、文明人は、ある意味、恐怖を感じるものなんです。古代ローマ人が「ヘビのような髪型」と言ったのも、野蛮なケルト人を恐れていたからに違いありません。ギリシャ神話で登場する、蛇の髪の毛を持つ怪物メデューサも、やはり民の恐怖を反映した一種のドレッドヘアなんだと思いますよ。そんな髪型が「なんだかわかんないけど、カッコイイ」と流行るんですから、面白いですよね。

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10 かつらで権威をアピールした英国法廷

覚えていますか? 小学校の音楽室にあったバッハやモーツァルトの肖像画は、銀や白のくるくる巻き毛を大きく膨らませたり、肩まで垂らしたりしていましたね。ご存じのように、あれは、かつら。いまどき、仮装大会でもなければ、あんなものをかぶっている人はいません……と思ったら、大間違い。イギリスの法廷では現在もガウン(法衣)を着て、あのようなかつらをかぶったバリスタ(法廷弁護人)が見られます。もともとは17世紀に上流社会で流行った慣習が法廷に持ち込まれただけで、その流行がすっかり廃れたあとも、法廷ではガウン(法衣)とともにかつらの着用が義務づけられてきました。なぜ?? それは、権威の象徴だから。そして人物特定を難しくすることで裁判官や弁護士の身を守るため。しかし、さすがに20世紀後半には「時代遅れ」という声も高くなり、さまざまな論争が繰り返され、そしてついに2008年、経費削減と市民と司法の距離を近づけるといった意味合いから、イングランドとウェールズでは民事裁判でのかつら着用が廃止に。でも、そのほかの地方や刑事裁判では、まだ昔のままの扮装で裁判に臨む裁判官や弁護士がいます。書類と一緒に法衣やかつらを鞄に詰め込んで出勤している姿を想像すると、ちょっと楽しくなりますね。

<荒俣宏のワンポイントコラム10 かつら>

中世ヨーロッパのかつらは、帽子のような「いかにもかつら」というタイプに限られていて、かつらを地毛のように見せることには、まだ抵抗があったようです。今のようなかつらの誕生は恐らく20世紀に入ってから。戦後、心理学の世界に「コンプレックス論」が登場したのですが、この新しい理論によって、自分の容姿で負い目になっている部分=コンプレックスを克服するためには、いっそ外側を変えちゃったほうが早いだろうと、美容整形が容認されるようになったのです。いわゆるナチュラルなかつらは、それに便乗する形で、市民権を得たようです。

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11 リーゼントはどこに行った?

1933年ごろ、イギリスで前髪を高く盛り上げ、側頭部の髪を後方にすいて流す長髪スタイルが流行し、ロンドンのWest Endにある繁華街「Regent Street」(リーゼント通り)の緩やかなカーブになぞらえて「リーゼント・スタイル」と呼ばれるようになりました。 ときは流れ、戦後の日本。高度成長期の波に乗って現れたのが、浜ジル(横浜ジルバ)とスカジャン、そして女の子のポニーテール、男のリーゼント。ロカビリー・ブームや、ロックの大流行とリーゼントは、切っても切れない関係でした。エルヴィス・プレスリーもリーゼント、マッシュルーム・カットになる前はビートルズもリーゼント。日本ではキャロル(1972〜1975年)がリーゼントにして一気にスター・ダムへ昇っていきました。リーゼントにすれば女の子にモテモテ、なんていう大きな勘違いも手伝って、ポマードでピカピカになでつけ、額の上に大きく盛り上げられた若者たちに、年長者は眉をひそめたものです。 ちなみに日本でリーゼントといえば、不良の代名詞でしたが、本家本元のイギリスでは、上品な紳士のロングヘア・スタイルのひとつとされていました。リーゼントが姿を消しつつあるのと呼応するように街には軟派な男の子が増えているような気がするこのごろ。今こそ、リーゼントで粋な男をキメてみませんか?

<荒俣宏のワンポイントコラム11 リーゼント>

ジェントルマンのヘアスタイルが、なぜ過激なロックの連中に広がったのか。もちろん、ロカビリーブームでプレスリーなどが、この髪型をしていたっていう理由はあるんですが、それ以外に、実はリーゼント=ジェントルマンというイメージがとれたことが大きいんです。これは、9に登場したドレッドヘアにも共通しています。ドレッドヘアは恐怖や野蛮、リーゼントは紳士や規範、象徴するものはまったく対照的ですが、各々に余計な意味がなくなり、その代わりにファッションという新しい意味を盛り込むことで、世界中の人たちに受け入れられているわけです。これは面白いですね。

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12 インド人はなんでターバンをまいているの インドの男性と言うと、白いターバンを巻いた姿を思い浮かべる人、いませんか? でも、インドの都市部ではターバン男性はむしろ少数派なんです。また、ターバンはインドに限らず、イスラム教圏の多くの国で宗教的敬虔(けいけん)さの象徴として扱われていますから、ターバンを巻いているのはインド人だけというわけでもありません。では、なぜインド人=ターバンのおじさん、というイメージが定着したのか、それはやはり、東京オリンピックのころに流れた「インド人もビックリ」というテレビCMのせい? 日本にいるインド人でターバンを巻いているのは、たいていシク教の人たちです。彼らの多くは「体に刃物をあててはいけない」という宗教上の理由から髪を切らず、ターバンを巻き、人前ではずすことは決してありません(もちろん、人がいないところでははずすし、洗髪もします)。シク教の人々は外向的でビジネスに通じていたので、海外で活躍する人が多かったことは確かです。それがインド人=ターバンを結びついた部分もあるかもしれませんね。しかし、インド国内や砂漠地帯などにはシク教でなくともターバンを巻いている人たちがいます。地域や宗派によって、色や形、巻き方は違うらしく、インド人はターバンをみただけで、どこの出身者かがわかるそうです。

<<荒俣宏のワンポイントコラム12 ターバン>

ターバンには、もともと砂漠の民が過酷な環境の中で髪を保護するという切実な役割があったはずですが、イスラム社会になってからは宗教的にも大きな意味を持つようになったようです。ヨーロッパの人はターバンと言えば、インドではなく、東西文化交流の地、トルコをイメージするようです。それを象徴するのが「チューリップ」。チューリップはオランダが有名ですが、実はトルコ原産。この花がヨーロッパに伝えられた際、ターバンを巻いたトルコ人の頭に似ていることから、トルコ語のtulipam=トゥルバンから名づけられたと言われています。

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