2016年1月31日 「水木しげるサン お別れの会」
荒俣宏 ご挨拶全文

(以下「minkabuニュース」よりhttps://news.minkabu.jp/articles/xh.sankei.co.jp/1/0/urn:newsml:xh.sankei.co.jp:20160131:a6a66dbc57c265887740eb3e313ea68e)



【水木しげるさんのお別れの会・詳報】(2)荒俣宏さん「水木さんは神通力が本当にあった」




 <水木しげるさんの冥福を祈り、黙祷(もくとう)がささげられた後、お別れの会の発起人代表である作家・博物学者の荒俣宏さんが、水木さんの略歴と功績を振り返った。荒俣さんは、水木さん自身が書いた略歴を紹介。その行間から水木さんの心情を読み説いた。また、一番弟子として水木さんと付き合ってきた時のエピソードを披露。会場は笑いに包まれた>

■荒俣宏さん

 みなさん、本日は本当にお忙しい中を大変ありがとうございました。

 きょうは水木さんのお別れの会でございます。といっても、先ほど京極さんがお話ししたように、お別れになっても一度、出てくるような気がするんですね。私は全然、お別れをするという気持ちはございませんけれども、とりあえず水木しげるさんの略歴を読ませていただきます。
 ちなみに、この略歴は水木さんご本人が書いたものありますから、間違いはありません。われわれが書くと、間違いの可能性がありますので。ご本人の筆であるということを最初に申し上げておきます。水木さん自身の書いた、ある本の著者紹介の一節であります。
 「1922年、鳥取県境港市に生まれる。同市の高等小学校を出て、大阪に行き、いろいろな職業に就きながら、いろいろな学校を出たり、入ったりする。戦争で左手を失う。著書には『ゲゲゲの鬼太郎』『日本妖怪大全』などがある」
 非常にシンプルでございます。本当に略歴です。私、そんなことは知っているつもりでましたが、改めてこの略歴をみて水木さんの心情をちょっと忖度(そんたく)したことがございます。
 まず、いろいろな作品で活躍なされ、日本に絶滅しかけていた妖怪をこの世によみがえらせたのが、水木さんの最大の功績だったと思うのですが、そんなことは一言も書いてありません。しかも学歴などは「いろんな学校に行った」としか書いていないのです。
 そうなんです。つまり、水木さんにとっては、学校に行くとかいかないってことは大した問題ではなかった。唯一、大した問題だったのは「戦争で左腕を失う」、この一言なんですね。
 水木さんの一生は、これがスタート点だった。私はいろいろな方の戦争体験を聞きましたけども、水木さんほどポジティブな戦争体験を語られた方はいないと思います。
 どんなことを語られたかというと、私が最初に驚いたのは「先生、左手失った場所なんですね」って、直接いったんですけども、そこでお話をなさいました。
 「あのときね。少しずつ手の状態が良くなって、包帯が取れた時に手のにおいをかいだら、赤ちゃんのにおいがしたんだよ」っておっしゃっていました。
 すごいですよ、これ。再生して自分の体が赤ちゃんのようになっている、という言葉を聞いて、私は大変感動いたしました。ほとんど水木さんの心情というのはここに尽きていると思います。
 それ以降、大変ご苦労をなされました。「私が幸せになれたのは40過ぎだ」とおっしゃっていましたが、どうもそんなことも大したことはなさそうなんですね。略歴を見ますと「いろいろあった」と一言で全部くくられているところが、水木さんらしいと思います。

 で、私がいろいろな冒険に一緒にお付き合いさせていただいた話の中で、皆さんにあまりお聞きになったことがないようなお話を一つ、二つ、追加で、皆さんに怒られるかもしれませんが、紹介をしておきます。

 水木さんは神通力が本当にありました。どこへ行ってもフリーだったんですね。これは驚きました。
 今でも忘れもしませんが、ヨーロッパのある美術館で「撮影禁止」と堂々と書いてあったのですが、そこで一切かまわず写真を撮っていました。「水木さん、大丈夫ですか」と聞くと、「私は大丈夫なんだよ」って、おっしゃって、どんどん撮影する。私もついつられて私も一コマ撮ったんです。私は捕まりました(会場、笑い)。そばで水木さんがわっはっはと笑いながら、じゃかじゃか撮っている。そんな自由さがありました。

 もう一つ覚えているのは、広島県のあるお寺に、たぶん日本で唯一でしょう「妖怪がくれた木槌(きづち)」というものが置いてあるところがあります。その木槌を何とか見せていただくことになったんです。
 住職は「触ってはいけないよ。触ってちょっとでも振ったら、妖怪が出てくるからね」。この木槌を振ることができたのは、いまだかつて、記録にも出ているらしいのですが、明治天皇だけだったという話なんです。
 明治天皇以外は人の手に振れていないので、「触るな」とおっしゃっている。私たち「はい、分かりました」と言って、うやうやしく持って来られた木槌を見ました。正直言いますと、普通の木槌でございました。それでも「すごいね」と言っているうちに住職さんにお電話がかかってきて。「ちょっと失礼します」。何が起こったが言わなくても分かる(会場、笑い)。
 いなくなったなと思ったら、水木先生、お逗子を開けて、くぐっとつかんで振っていました(会場、さらに笑い)。たぶん今、妖怪は解き放たれているんですね。そういうことを覚えています。

 もう一つ、これ、皆さんのお耳に入れるといけないとかどうか分かりませんが、どうしても思い出すと、必ず出てくる話があるので、もう一つだけ、この略歴に付け加えさせていただきます。

 どこへ行っても私たちを楽しませてくれた方でありますが、イタリア旅行に奥様と一緒に行った時のことでごさいます。カプリ島に「青の洞窟」という有名な場所があって。洞窟の中をくぐると、その中で海全体が真っ青になるという不思議な洞窟がございました。「どうしてもそこに行きたい」というので、ボートをチャーターし、イタリアの船頭さんが鼻歌を歌いながら「じゃ入れてやるよ」ということになりました。
 入り口がものすごく狭いんです。船頭の技術で、するっ、するっと入るようになっているんです。ただ、入る時に船頭さんは必ずこう言いました。「君たち、まともに眺めていると、頭をぶつけて死ぬよ」と。私たちは全員、こうしていました(かがむようにして)。私の前に水木先生がいたので、ちょうどいいということで膝の上に顔をつけていました。奥様はその隣にいました。ところが、水木さんは直立したままカメラを撮っていまして。
 何度も船頭さんに声をかけられていたのですが、ニコニコ笑いながら「大丈夫、大丈夫」とおっしゃっていました。本当は大丈夫じゃないんです。入り口の広さからいうと。船頭さんは「どうなっても知らんぞ」といって、立った状態で、いきなり船が中に入ったんです。
その時、夫婦愛ってみましたね。奥さんがわが身をていして、押さえつけようとしたんです。すごい力だったと思います。でも、水木さん、(かがむしぐさで)こういう風にしないで、ひっくり返ったんですね。で、奥さんは誰を押さえたかというと、膝の上にいた私の頭を押さえたんです。あまりの力に息も出ませんでした。 中に入って「大丈夫か」というんで、水木さんの姿をみんなで探したら、(のけぞったしぐさをして)こういう状態になっていました。小さなつぶらな目をぱっと見開きながら上を見ていました。で、きれいな洞窟の中の青い海の別世界を出ていって、もう一度みると、ずっとこのままになっていたんですよ。

 「水木先生、見ましたか?」

 「私は天井しかみていなかったよ」

 冗談なのか本気なのか。大変すばらしい先生だったと思います。

 そういう先生だからこそでしょうね。私たちのようなばかな弟子を、食うことができないような状態でしたけれども、育ててくれたというとおかしいのですが、何とか世の中に出るようにさせていただいたというのは本当に感謝しております。弟子を代表して、お礼とともに、きょうお集まりいただいた皆様にも深くお礼をさせていただきます。ありがとうございました。