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荒俣 宏(あらまた/ひろし)
Aramata Hiroshi
1947年7月12日〜(※1)

またの名を本野虫太郎、本読みまぼろし堂店主。
号して游魚亭。
翻訳家として活動していた初期には敬愛する作家ロード・ダンセイニをもじって「団 精二(だん/せいじ)」のペンネームを使用していた。
なお本人は自らをしばしば「アラマタ」又は「アラマタさん」と呼ぶ。

身長183.5センチ(※2)、推定体重100キロ(※3)。B型。
その編著作は400を超えており、博識をもって知られることから硬軟とりまぜたテレビ出演・講演活動なども活発におこなっている。

公職(肩書き)としては日本文芸家協会会員、日本SF作家クラブ会員、世界妖怪協会
会員 玉川大学客員教授、武蔵野美術大学客員教授、サイバー大学客員教授、南方熊楠記念館名誉館長、京都国際マンガミュージアム館長、世界遺産熊野本宮館 名誉館長、神奈川近代文学館懇話会会員など。

長年の荒(すさ)んだ生活と極度の甘党故か、糖尿、通風、胆石、痔、睡眠時無呼吸症候群、歯槽膿漏、花粉アレルギーなど病気のデパート状態である。

たいやき・大福・カルピス好き、飛行機嫌い、船ではすぐに酔う。
アルコールは一切ダメで、タバコものまない。

※1 誕生日は”12日”と”17日”があり、こちらを参照のこと。なお本人は著書「アラマタ大事典」にて「7月12日」と表記。

※2 妹尾河童の本では「185センチ」、著書「紙の極楽」では「183センチ」と語っている。

※3 「昨年111kgだった体重が、現在104kgまで落ちてきた」(本人ブログ2010/06/02より)

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昭和22年(1947年)7月12日、父・一男、母・ミツの長男として生まれる。

父方の祖父はかつて浅草でブリキ缶製造に携わっており、母方の祖父は腕のいい大工だった。
三代続く生粋の江戸っ子である。
生家は上野鶯谷で非鉄金属(カメラ部品等)卸業を営んでいた。
3人兄弟で、妹・荒俣静枝氏(1949生、漫画家の志村みどり)、弟・荒俣幸男氏(1953生、メガロパ海洋生物研究所所長)がいる。

1952年4月 上野のフランス系キリスト教会上野保育園に入園

1953年ころ 家業が傾き板橋の金井窪(現在の大山金井町)へ夜逃げ。

落合幼稚園に編入
同地で瀬戸物販売兼タバコ屋兼貸間業の「みどり屋」を始める

1954年4月  板橋区立板橋第七小学校入学

1959年5月 練馬区北町へ 2度目の夜逃げ

「みどり屋」も軌道にのらず再度練馬へ夜逃げしている。決して裕福とは言えない少年時代を送った模様である。 この2度の夜逃げは後の人生観に大きな影響を与えている。

小学生の頃から趣味は海産生物採取と読書(当時のアダ名は「天邪鬼」「マタンゴ」「あんこ」)。幼いころパチンコ好きの父を待つ時間に知った漫画の魅力にも取り憑かれ、小学生の頃から貸本屋通いも始まる。実際、自身も漫画家を目指し少女・幻想マンガを書きまくった。 (こちら)
  なお、職人の家系だけに家には1冊も本がなかったという。

「体が大きい」というだけでイジめられたこともあり、海産生物採取と読書などの1人遊びが多かったのかも。

1960年4月 日本大学第二学園中学校(荻窪)入学

中学二年生の頃、病床で偶然読んだ「世界恐怖小説全集」(東京創元社)にハマり、以降は海外幻想文学の世界へも傾倒。中学三年生のころ、同作品の翻訳家である平井呈一氏にフアンレターを送った事をきっかけに、氏に師事する事となる。通い門弟で書簡のみのやりとりが長く続くが、氏から
「いやしくも英米文学を読もうという男が、翻訳をあてにするとは何ごとか。
 原書(ふきかえなし)で行け、原書で!」
との書簡が届き、苦手な英語を猛勉強、中学生くらいから原書を紐解いている。

同時に当時は知られていなかったラブクラフト、その作品が掲載された雑誌をそろえようと決心。
丸善に通ったり、海外SF雑誌に掲載されていた広告を頼りに手紙を出したり、収集をはじめる。
これが荒俣の古書蒐集のスタートであり、ダンセイニとの出会いがそれを加速することとなる。
なおラヴクラフトに関しては高校を卒業するまでにすべて読破している。

1963年4月 日本大学第二学園高等学校入学

高校では「澁澤龍彦とパラケルススとアンブローズ・ビアスに耽溺」(工作舎著者紹介より)。
1964年には、師匠平井の紹介で、当時立ち上がったばかりの「恐怖文学セミナー」(紀田順一郎、桂千穂、大伴昌司が結成した同人。同人誌「ザ・ホラー」を発行していた)の同人にも名を連ねた。

またこのころ鏡明氏とも知り合い、親交をふかめている。
大きくて(鏡氏は身長190cm)驚いた話、無修正のHな海外雑誌を集めあった話、就職後も勤務先が近かったことから頻繁に会っていた話などが著書「紙の極楽」に記されている。ただし鏡氏は「(つねに荒俣の)三歩先を行っていた」「この鏡明ほど、愚生に畏怖の念を抱かせた同世代の本好きはいなかった」(同書より)そうで、いいライバル関係でもあったものとみられる。

なお、翻訳家の野村芳夫氏は高校の同級生。また1学年下に詩人のねじめ正一氏がいた。

高校時代の部活は文芸部と園芸部と剣道部だが、部活動、特に剣道に触れられたことはほとんどない。

1966年4月 慶應義塾大学法学部に入学

慶應義塾大学法学部に入学。
在学中、野村芳夫氏(氏は日大に進学した)と怪奇幻想文学についての同人誌『リトル・ウィアード』(同人名:ザ・ミスカトニシアンズ)を刊行。

「幻想文学講義/東雅夫」(2012/08)に掲載された対談によると、荒俣は当初イラストを担当する予定であった。が野村氏の翻訳作業が遅く、1冊の本を野村氏が頭から、荒俣が後ろから訳していくというスタイルで作業をしていくうちに、だんだん翻訳担当になっていき、イラストは新しい人に担当させることになった。4年間で12-3冊を作り、毎回刷ったのは4-50部(さばける、現実的な冊数)だったらしい。この同人誌の費用を捻出するため大学時代はバイト三昧であったとのこと。ほとんどラヴクラフトのための本だった、というような事も語っている。

対談の通り、大学生になってからは本集めのためにアルバイト三昧。当初はペーパーバックの収集を行うが、しばらくして稀覯本の収集へ移行。

また、師匠の平井より「私はもう年寄りなので、もっと若い人に付きなさい」と紀田順一郎氏を紹介され、氏にも師事。 本人は「平井呈一翁がお師匠さんなら、紀田先生はまさしく恩師である」と語っている。洋書一辺倒だった荒俣が紀田氏より江戸本や書誌学の魅力を教わったほか、プライベートでもお世話になっており、荒俣に大きな影響を与えた人物の一人である。
この間、早川書房から翻訳の誘いがあり、大学4年生頃から翻訳家としても活動を開始する。大学時代の仕事としてはSF雑誌での翻訳執筆、少年誌の巻頭企画協力などが主。大きな仕事としては、編集委員・訳者代表を師匠・平井呈一がつとめた「怪奇幻想の文学」(新人物往来社)に参加し翻訳寄稿と解題を執筆している。

大学時代がアラマタのデビューとなるが、詳細はこちら
をご参照のこと。

1970年4月 日魯漁業(現ニチロ)に入社

大学卒業後は「好きな魚の研究が出来るかも」という理由で日魯漁業(現ニチロ)に就職した。
単位不足で卒業が遅れ、半年後の正式入社となった。
最初の配属は「資材部」で、当時の上司が現在の自民党・園田博之議員である。
園田氏はテレビ番組で当時のことを

「この人がねぇ、もの書きになるなんて想像もしなかったねぇ。
 ただ・・・えらい貧乏だと思ったんだよねぇ。
 昼にねぇ、当時会社でラーメン作ってたんだよね、安いラーメンを。
 それを毎日たべてるらしいんですよねぇ。
 あとで聞いたらね、給料全部本買ってたらしいんだね。」

と語っている。
1年後には北海道拓殖銀行コンピューター室(東京事務センター)に異動となり、プログラマーとして勤務することになる。当時、同銀行に最新鋭のコンピューターがあり、それを借りるような形の出向だった模様で、船員給与ソフト開発などに携わった。会社もアラマタの社会性のなさにうすうす気づいていたと思われる。最後は外国部に配属となり1979年に退社することとなる。

なお、サラリーマン時代も継続して翻訳活動、評論執筆活発におこなっていた。
企業が二足の草鞋を認めないこともあって、就職にあわせ「団精二」名を考案し使用していた。
(雑誌「SFマガジン」1970年5月号、「果てへの旅路 The Big Trek / フリッツ・ライバー」の翻訳がはじめての「団精二」名使用とみられる)。
以下はサラリーマン時代の仕事の一端である。

1970年8月 英雄コナンシリーズ「征服王コナン/ロバート.E.ハワード」発売。団精二名義で処女出版。解説も担当
1972年6月 「ダンセイニ幻想小説集」発売
1973年4月 紀田順一郎氏と「幻想と怪奇」創刊
1975年3月 「ペガーナの神々 The Gods of Pegana / ダンセイニ」(訳)発刊
1975年8月 「ラヴクラフト全集T(編訳)」発刊
1977年5月 「別世界通信 ファンタジー文学への風変わりな招待状」発刊。なお”翻訳”や”編”を除けば、本書が「荒俣宏」名義で出された最初の本となる。
1979年6月 雑誌「奇想天外」にて「理科系の文学誌」の連載開始。

サラーマン時代は
「睡眠時間2〜3時間」
「昼休みは昼食もとらずデパート踊り場の長イスで翻訳活動」
など海外幻想文学発信と古書蒐集のために活動。
またこのころの経験が
「25歳の頃、なまいき盛りのサラリーマンだったぼくは、フランス文学や前衛芸術のたぐいを愛して得意満面だった。しかし、読めば読むほど、同僚や若いOLから浮き上がった。空しいから、さらに読んだ」
などの名言もうむことなった。

1979年秋ころ 同社退社

本人は
「長く勤めると、今後も腰を据えてやってくのかどうか決めなきゃならない時がくる。これからの時代、なんとかなるだろう、と辞めた」
「辞めたあと就職を探そうと思ったが、好きな時間に寝起きする自由のよさに気付き伸ばし伸ばしにしているうちに今日に至った。母はいまだに『早く就職しなさい』という」
という趣旨のことを語っている。
(サラリーマン〜退社に関しては次のようにも語っている <「エール」より。こちら>

1980年ころ 平凡社での居候開始

退社前後にも連載(「理科系の文学雑誌」<奇想天外>、「不連続線上の系譜学」<遊>)や書評寄稿、「世界幻想文学大系」(国書刊行会)や「妖精文庫」(月刊ペン社)の監修、翻訳出版など多数の仕事をこなしていたが、平凡社で「世界大百科事典」の新版作成の作業が始まることとなり、編集補助の1人として参加。
平凡社では「その他雑部門」を担当。専門家のいない「怪物」部門を執筆したり、各項目に余談を加える作業をおこなっていた。
はじめは規則正しく生活していたが、除々に平凡社にいる時間が増え、最終的にほぼ「住みつく」という状態になる。「つかまらない」「どこにいるかわからない」「風呂に入るかわりに公園で砂あびをしていた」など、このころの逸話は多い。

1983年9月 雑誌「月刊小説王」(角川書店)にて「帝都物語」の連載開始

百科事典作業の傍ら、同誌の編集長・森永博志の誘いで初の小説連載を開始する。
「帝都物語」についてはこちら
をご参照いただきたい。

1984年ころ 世界大百科事典の作業終了、「世界大博物図鑑」の作業に入る

このころの生活はこちらを参照

1987年5月 「世界大博物図鑑」の刊行開始

マグナムオプスである「世界大博物図鑑」についてはテレビで以下のように語っている。

「(「世界大百科事典」のあと)次ね、何かやらなきゃね、単なる居候じゃ夜警と同じになっちゃうんで、夜警プラス何か仕事やろうと思って思いついたのが、百科をやったときにちょうど扱ったネタがあって。」

「なるべくこれまで本がなかったようなものつくろうと。そうすれば10年くらい書けるから(平凡社に)長く居られるだろうということで。いままで誰もやったことないやつをやろうということで考えついたのが、大博物図鑑という。博物図鑑を全7巻つくりました」

(完成後の感想を聞かれ)
「気持ちはねぇ・・・やらなきゃよかったと思いました(笑)」
「だって一番・・・30代から40代の、まぁ言ってみれば最後の活力があるころなんで、もうちょっとなんか違うことをやれなかったかなぁ・・・という反省はありましたけど」

1987年10月 「帝都物語」が350万部のベストセラーとなり、第8回日本SF大賞を受賞

授賞式では 「ここ二十年というもの、日々、本を買うためだけに費やしてきました。その意味でいえば、私は生きていません。亡霊が晴れがましい席に現れてきたような気がします」とユニークなあいさつを述べた

1987/07-1988/07ころ 漫画家・水木しげる氏に弟子入り

きっかけは「世界大博物図鑑」で荒俣を知っていた水木氏が、対談相手に荒俣を指名してきたことであった。かねてから水木フアンであった荒俣は水木氏と布枝夫人の前で土下座をして「弟子にしてください」とお願いし、めでたく弟子入りをゆるされた。水木大先生は当時のことを

「あー・・・そうそう、そういうバカバカしい弟子入りはあったですねぇ。
 そりゃあんた、冗談半分に言っとるわけですよ。
 荒俣さん自体がもう妖怪ですよ。
 人類の顔しとるけどね、混じってるんですよ。
 人は気がつかないし、またそういうものが存在しないと思っとるから、
 うまく紛れ込めるんです」

と語っている。

以降、妖怪の仕業か、一般にも荒俣の認知が進むことになる。

1988年10月 NHKにて市民大学「博物学の世紀」放送、講師をつとめる

1989年秋「世界大博物図鑑第2巻・魚類」(平凡社)がサントリー学芸賞を受賞


1990年 このころより風水に関する記述が増え始める

1991年10月 「開かずの間の冒険」(平凡社)刊行。著作100冊目。

1991年12月 西武系百貨店で「博物画ワンダーワールド 荒俣宏コレクション」開催。博物学ブームがピークに

1992年 このころからバラエティなどの出演も増えてくる

1993年 風水ブーム 原泰子氏と結婚

1996年 第1回世界妖怪会議開催

2001年 インターネット博覧会(インパク)編集長の1人に就任

2003年 トリビアブーム

2005年 愛知万博「愛・地球博」のパビリオン・グローバルハウスの監修担当

2010年 名古屋開府400年記念イベントのゼネラルプロデューサーに就任

近年は、幼少期から追ってきた魚類に関する仕事を多く手がけている。

なお、家をいくつも持っていながら帰らない、平凡社での寝泊まり、風呂嫌い、などの奇行の持ち主
としても知られていたが、最近は泰子夫人の指導もあり人間らしい生活を送っている模様である。

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主な受賞歴は以下のとおり。

1987年10月 「帝都物語」が350万部のベストセラーとなり、第8回日本SF大賞を受賞

1989年秋 「世界大博物図鑑第2巻・魚類」(平凡社)でサントリー学芸賞を受賞

2007年12月 科学技術研究所が2005年より科学技術への顕著な貢献をした人物「ナイスステップな研究者」を選定しており、荒俣は長谷川善和群馬県立自然史博物館館長とともに【成果普及・理解増進部門】に選ばれる

2012年11月 奈良県の大和郡山市が創設した「水木十五堂賞」受賞(第1回受賞者)

2014年2月 雑誌「キネマ旬報」での連載「百年の闇 キネマの幻」が“2013年第87回キネマ旬報ベスト・テン&個人賞”の読者賞を受賞

2017年5月 神奈川県の公共の福祉の増進や文化の振興などで功績のあった個人や団体を表彰する和歌山県知事表彰受賞
和歌山県知事表彰 <教育、文化等の振興【文化振興部門】> 荒俣宏



年譜

年月日 出来事 備考 社会
1947年(昭和22年)7月12日 東京・鶯谷で出生 生家は非鉄金属(カメラ部品等)の卸業を営んでいた 日本国憲法施行、アルフォンソ・カポネ(ギャング)死去
- キリスト教系の幼稚園に通う - -
1954年(昭和29年)頃 板橋の金井窪(現在の大山金井町)へ夜逃げ 瀬戸物販売兼タバコ屋兼貸間業の「みどり屋」を開業 『ゴジラ』第1作公開、メートル法実施
1959年(昭和36年)頃 練馬へ夜逃げ 「みどり屋」の運営も不振だった模様 -
1965年(昭和40年)3月 日本大学第ニ学園卒業 高校時代は文芸部・園芸部・剣道部に所属 米、北ベトナム爆撃開始、ル・コルビュジエ(建築家)没
1970年(昭和45年)3月 慶應義塾大学法学部卒業 この間、早川書房から翻訳の誘いがあり、大学4年生頃から翻訳家としても活躍 アポロ11号が人類初の月面有人着陸、ドラえもん連載開始
同4月 日魯漁業入社 コンピューター室にプログラマーとして勤務。船員給与ソフト開発などに携わり、その後北海道拓殖銀行へ出向(東京事務センター) -
同年 英雄コナン・シリーズ『征服王コナン』出版 団 精二名義で処女出版 大阪万博開催
1973年4月 雑誌「幻想と怪奇」創刊」 紀田氏らと編集にかかわる -
1976年5月 - 平井 呈一氏 没 -
1979年(昭和54年) 日魯漁業退社 その後4年間ほど「平凡社 世界大百科事典」の編集に携わる。 天然痘が根絶
1983年(昭和58年) <神霊小説 帝都物語>連載開始 角川書店「月刊小説王」1号(1983年10月号) 東京ディズニーランド開園
1987年(昭和62年) 「帝都物語」(角川書店)が350万部のベストセラーとなり、第8回日本SF大賞を受賞。 - JRグループ7社が発足
同年5月 世界大博物図鑑 刊行開始 - -
1988年(昭和63年) 作家・杉浦日向子氏と結婚するが半年で離婚 - 青函トンネル開通、東京ドームが完成
1989年(昭和64年) 「世界大博物図鑑第2巻・魚類」(平凡社)でサントリー学芸賞を受賞 - 昭和天皇が崩御し、皇太子明仁親王が即位
消費税開始。税率は 3%
1993年(平成5年) 泰子夫人と結婚 碓井広義氏(上智大学教授)の紹介だった模様 Jリーグ開幕
2007年(平成19年)  7月12日、泰子夫人の体調不良などもあり還暦を期に「奇人変人はもうやめます」と宣言  「わたしの失敗V」(産経新聞出版)より  - 
2011年 心不全で死亡の予定。享年64。 「私の死亡記事」(文藝春秋)より -
なんとか切り抜け今日に至る   -











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